2013年1月24日木曜日

2年ぶり (2008/12/17)

寒くなってくるとおいしいのがカブラ。 毎週日曜の朝、我が家から歩いて1分のところに朝市が出る。冬場は野菜が少ないが、この日曜からカブラが出始めた。 むいてスライスしてそのまま食べる。みずみずしくてなめらかで柿のような食感。そして、ほんのりと甘い。う?ん、うまい!! 何も付けないのがいい。試しにポン酢を付けてみたこともあるが、ダメである。味が強すぎる。茎はザクザクと切って、ジャコと一緒に油炒め。これもうまい。 牧の朝市の野菜はなんでもうまいが、冬のカブラと夏のツルムラサキが最高だ。ツルムラサキも茹でただけ、これが一番うまい。 火曜は、石橋でジャワ舞踊のレッスン。今日は、見学者があった。京大の大学院で人類学の勉強をしている中国人留学生のLさんが、寒空にほっぺを赤らめてやって来た。 日本へ来て3年だが、日本語が本当に上手だ。聞けば、2年前に、京大の能研究会の公演にゲスト出演をしたのを見たそうだ。その時の印象が熟成され、2年経ってやって来たのだ。 この公演は、京都の岡崎にある観世会館が会場だった。伝統ある能舞台は、研ぎ澄まされた空間で、そこへ立つと、 動けば動くほど自分の首を絞めるぞ、 無駄な動きは出来ないぞ、 という空気が感じられた。 何も付けないカブラのように踊りたいなぁ!

動かないダンス! (2008/11/29)




神奈川県民ホールの吹き抜けの展覧会場にあるバルコニーでコンサートの出番を待っていた。階下の中央には、ガムラン楽器が正方形に置かれていた。ガムランの前では、「愛の賛歌」の作曲者である三輪眞弘さんが、コントートの解説をしていた。小金沢健人さんの映像作品とコラボレーションをすることになっていたのだ。 

三輪さんが、自分は4桁の2進法を用いて作曲したことや、小金沢さんの映像作品が実は単に2色の色鉛筆の線が延々と延びていくだけなんだ、ということを話していると、 

ブォ~ ブォ~ 

と、遠くから汽笛が聞こえてきた。会場の聴衆には聞こえていないだろうか。港に停泊している豪華客船ASKA 2の汽笛だろう。昼間、赤レンガ倉庫で行われている横浜トリエンナーレを見に行った時に、この船をバックに記念撮影をした。赤レンガ倉庫の屋根の上にはトンビがとまってピーヒョロと鳴き。倉庫の中では、土方巽の肉体が反乱を起こしていた。 

「愛の賛歌」は、儀式のような作品である。純粋を目指すコンサートホールにおいてより、日常が忍び込むこんな会場の方がふさわしいかもしれないと思った。とにかく、僕の気持ちは少しほぐれた。 

バルコニーから階段を下り、階段が切り返す踊り場でスタンバイした。照明が身体を浮立たせる。グンデルが静かに響きがはじめた。音が身体に沈殿していく。会場を俯瞰しながら、じっと立った。動かずにじっと立った。 

6,7分経つと、「2色の色鉛筆の線」が360度の壁を回りはじめた。思わず一緒に回りそうになるのをこらえた。回転が身体に染み込んでいく。視線を中空にとどめ、じっと立ち続けた。ルバブが秘やかに誘うように弦を擦りはじめた。 

身体を真っ直ぐに留めていたピンを抜くと、身体がゆっくりと揺れはじめた。揺れが収まると、手がゆっくりと上がりはじめた。右手と左手が出会う正中線で、手はシンメトリーに動いた。やがて、サロンが高らかに鳴りはじめ、歌い手が愛の歌を歌いはじめた。僕は、会場に満ちた空気は揺らし、時間と空間をずらしながらダンスした。 

グンデルの最後の音が鳴り、照明をオペレートしていた小金沢さんと気を送り合いながら、僕はゆっくりと動きを止めた。演奏時間は50分に迫っていた。「愛の賛歌」の最長演奏時間である。ダンスと照明は、ほとんど即興だった。 

動かずにじっと立つことを、10分近く続けた。すごく難しかったが、いいチャレンジになった。長く沈黙を続けると、どんなに微妙な動きをしても、そこには差が生まれるので、すごく大きな表現になるのだ。 

公演終了後、ホールから歩いてすぐの中華街東門横にある北京飯店で打ち上げになった。みんながビールで乾杯する横で、僕はウーロン茶で乾杯をした。楽器を積んだハイエースでスペース天へ戻らなければならなかったのだ。 

雨の東名高速を走り、東名阪、新名神、名神、京都縦貫道経て、スペース天にたどり着いたのは朝の6時過ぎだった。白みはじめた東の空に三日月が上がっていた。楽器を運んでいると、

「朝早いのう!」 

と、声が聞こえた。振り向くと、背丈ほどの大きな棒を杖にした大柄な男だった。とても薄着のようだった。返事をする間もなく、男は裏山へ続く坂道を上がっていった。 

あっ!そうか! 

10年前のスペース天開所以来、天に泊まった人達から、夜更けに足跡や声が聞こえるという話をよく聞いた。僕自身も、午前3時頃、スペース天の周囲を、何者かが何かをゆっくりと引きずって歩く音を聞いたことがある。この男の足音だったのだろう。しかし、一体何者なのだろうか? 

横浜でダンス! (2008/11/23)

10月の終わりにジャワへ行き。ソロの音楽祭に参加してきました。そのことも日記に書かないといけないし、その前の夏の「桃太郎」インドネシアツアーも完結していない。う~ん!時間が足りない。 

ソロの音楽祭はすごかった。ありえない体験でした。6千人以上の観客がいて、巨大スクリーンがあって・・・。この話はまたいずれ・・・。 

明日から横浜へ行ってきます。このコンサートの告知は忘れていたかもしれない!三輪眞弘さんプロデュースのコンサートがあるのです。三輪さんの作品「愛の賛歌」という40分近い大曲で踊ります。今回のバージョンでは、9月のおおがきビエンナーレに引き続き、イウィンさんとふたりで踊ります。 

以下は、マルガサリのウェブサイトからの引用です。 

・・・ ・・・ 

神奈川県民ホール「アート・コンプレックス2008」にて、 
三輪眞弘作曲「愛の讃歌ー4ビット・ガムラン」を上演します。 

今回は、映像作家・小金沢健人の映像展「あれとこれのあいだ」開催期間中、ギャラリー空間を舞台に、映像作品とさらにバージョンアップを遂げた「愛の讃歌」とがぶつかり合います。

アート・コンプレックス2008 第2夜 
三輪眞弘プロデュース〈愛の讃歌ー4ビット・ガムラン〉 
2008年11月24日(月・祝日) 
19:30開演(19:00開場) 
神奈川県民ホールギャラリー 
全席自由 
一般 2500円 
学生 2000円 

http://www.kanagawakenminhall.com/index.html 

・・・ ・・・ 

なんですが、若干の招待券があります。興味ある方は、佐久間までメール下さい。メッセージでも結構です。先着順、早い者勝ちです。よろしくお願いします。 

立冬に栗東でダンス! (2008/11/08)

朝9時に名神栗東インターを下りて、新規オープンしたピカピカのサークルKの駐車場でAMラジオを聞きながらコーヒーを飲んでいると、今日は立冬とのことだった。あんまり寒くないけど・・・。 

去年、京都のetwギャラリーであいのてさん(野村誠さん、片岡祐介さん、尾引浩志さん)とライブをした時に知り合ったMさんが勤める滋賀聾話学校でのコンサートに向かっていたのだ。 

出演は、僕と碧水ホールのガムラングループ「ティルト・クンチョノ」。中学部の10人相手に2時間のプログラムだった。 

聾話学校の生徒なので、耳が不自由だが、補聴器をつけると少しは聞こえるとのことだった。音楽を楽しむのは耳だけじゃないだろう。身体全身で音を味わう2時間にしたかった。 

古典曲の演奏の他にも、ティルト・クンチョノ人たちには、身体でガムラン楽器の音を表現してもらった。最初は少し恥ずかしがっていたメンバーも段々とリラックスして身体が動くようになってきた。こうなると音も良くなるから不思議だ。 

後半は、僕が動いて、それに合わせて生徒たちがガムランを叩いた。本人たちには、聞こえているのかどうか分からないが、僕が動くと彼らも動く。動くと音が鳴る。 

生徒たちとコミュニケーションする時は、必ず顔を見ていなければならない。よそ見しながら、音(声)を使ってコミュニケーションすることは出来ない。そのかわり、顔を見てさえいれば、手話が出来なくてもいろいろコミュニケーションが出来る。 

僕が動くと、みんなが動く。動くと音がなって、また僕が動く。音と動きのコミュニケーション。そぉっと動いたり、きゅっきゅっと早く動いたり。音と動きが絡み合う。途中でかなり茶目っ気のあるSクンが登場して、ふたりで動いた。ふたりの間の空気が見えるように感じられた。空気が震えたり、流れたりする感じだった。 

目に見えない./見えにくいものを感じて、動く。 
耳に聞こえない/聞こえにくいものを感じて、動く。 

今日は立冬。栗東でダンス。いい一日だった。 

23年ぶり (2008/10/21)

ちょっと振り返って日記を書きます。 

10月12日日曜日 

2000年以来8年間、大阪府豊能郡豊能町牧に住んでいる。子供ができてからは、自治会と消防団にも入って、だんだんと地元にどっぷりつかり始めている。 

集落は47件。我が家以外のほとんどは、この地に数百年、長い家は1000年以上住んでいるという。山に囲まれた小さな盆地に田んぼがあり、山裾にかけて棚田が広がっている。集落の東側から、かみんじょ、なかんじょ、むかい、しもんじょ、とよばれる地所になっている。かみんじょには、水源地があり、水出さんというお宅が自治会長をしている。 

この日、秋の村祭りが行われた。23年ぶりに御輿が修復され、久々の村祭りだった。200年ほど前に購入した御輿の状態が悪くなったことや、社会が経済中心になってきたことなどがあって、村祭りは中断したのだ。今年ようやく、寄付
や助成金で、御輿と獅子舞が見事に復活し、そのお披露目の秋祭りだった。 


 

8時、村のはずれの丘の上にある神社に集合。はっぴに、短パン、白の地下足袋、ふとももにひんやりした空気が新鮮で、ぴりっと引き締まる。神社脇の倉庫から御輿を運び出す。黄金の御輿は500キロ近くあり、これだけでも大仕事である。ご神体の鏡や鳳凰や飾りを、アーデモナイコーデモナイとみなで相談しながら付けていく。 

御輿の黄金色の屋根がものすごい存在感である。異世界からやって来たように見える。丘の上にある神社はひっそりとした森にあり、土、石、材木、瓦、わら、綱、紙などから出来ていて、限りなくモノトーンというかアースカラー空間なのだ。そこへゴールドである。音でもそうだが、自然の中に金属があると本来はすごく異質で存在感があるのだ。ガムランもしかり、特別な空間が生まれるのだ。舞踊でも御輿くらいの存在感を出してみたいものだ。 




9時頃に、神官と巫女さんが到着。おそろしく年季の入ったPA装置で、祝詞を告げたりナンヤカヤと式を進めていく。そして、獅子舞の出番。僕も入りたかったが、練習にもあまり出られなかったし、新入りだし、今年は見ている側だった。立派な獅子である。身体は深緑色の布に、白と黒の馬のたてがみがつけられている。頭は木製でこちらにもたてがみが付いている。本物をこんなに間近で見るのは初めてかも知れない。僕と同年代で、普段は大阪市内まで勤めに出ている公務員のHさんともうひとりWさんが獅子に入った。お父さん、大熱演である。いいなぁ!! 




僕は千里ニュータウンで生まれたので、祭りなんかなかったのだ。盆踊りだって、小学校の校庭で、一休さん音頭やドラえもん音頭ばっかりだった。そのせいか大学へはいると、十津川の盆踊りやジャワやバリの芸能にはまった。20才の頃だから、もう20年近く前。しかし、浴衣を着ても、インドネシアの民族衣装を着ても、どこか地元民のようにはいかない何かがあった。 

それから現在まで、毎年十津川へも通い詰め、もちろんジャワ舞踊も続けている。20年も続けているとよそ者にも段々と雰囲気が出てくるようになった。この日の僕は何者だったのだろう。何の因果か日本の田舎に住むことになり、祭りの衣装を着て、祭りに参加していた。よそ者のような感じもしたし、地元民のような感じもした。ブナは、自分の父親の姿をどうみたのだろうか。 





10時過ぎ、いよいよ御輿の出番。20名ほどで担ぐ。結構ズシンと重い。拝殿を1周し、腰をかがめて鳥居をくぐらせる。ここで一旦終了。御輿をトラックの荷台に積み、細い山道を下って、公民館へ運び込む。昼休みを挟んで、午後からは村中を練り歩くことになっていた。 

家で昼ご飯を食べて、公民館に集合。みんな集まってきている。200人ほどだが、ここの集落にこんなに人がいたのかとびっくりした。平均年齢はいくつだろうか、50才は軽く越えているであろう20数人で、御輿を担ぎ、集落を練り歩く。要所要所で、御輿を揺らし気勢を上げる。単純に人数で割っても25キロ。背のばらつきもあるし、もっと重く感じた。 

こんな重いものを担ぐだけで、なんでこんなに楽しいのだろうか。23年ぶりの御輿に、皆が興奮していた。 

ソーシャル・インクルージョンやコミュニティアートの世界で、アートは人と人とを結びつける力があるといって、そちらの世界でも僕自身もいろいろやっているのだけれど、こんなに身近なところで「祭り」の力を改めて実感した。 



築90年 (2008/10/16)

ちょっと振り返って日記を書きます。 

10月10日 
インドネシア領事館が主催する日本とインドネシアの友好記念イベントに出演した。場所は、大阪の中之島にある中央公会堂。1918年に完成した有名な近代建築である。 

朝7時、ブナの弁当を作る。唐揚げ、アスパラのベーコン巻き、卵焼き、キュウリとトマト。ご飯と2段重ねのお弁当箱。デザートのブドウは別のタッパー。ちょっと多すぎるかな。今日ブナは遠足で、神戸の王子公園へ行くのだ。 

13時、スペース天にトラックがやってくる。運転手さんとふたりで、昨晩みんなで梱包した楽器をトラックに積み込む。フルセットではないので、20分ほどで完了。イウィンさんをピックアップしに、自宅へ戻る。4人分の舞踊の衣装を車に積み込み、さあ出発。 

15時、現地で楽器の積み下ろし。ホールでは、リハーサルが始まっていた。舞台上には、すでにバリガムランが並んでいる。いろんなグループが出演するので、舞台上の配置を決めるのが大変だ。狭い舞台に、バリとジャワのガムランが両方並ぶと、踊りのスペースが窮屈になる。それぞれのスペースを巡って、ちょっとした駆け引き合戦。 

16時過ぎ、リハーサル開始。演目は2曲。女性舞踊と男性舞踊である。女性舞踊を踊るのは、イウィンさんと川原和世さんと河島加奈子さん。ふたりとももう長く舞踊を習いに来られている。川原さんは、ジャワへも留学した。僕はリハを客席から眺めたが、3人の息はよく合っていた。 

ガムランチームは、マルガサリ、HANA★JOSSのふたり、ふいご日和楽団の後藤さん、という混成チームだった。平日だったので、仕事があるメンバーが順番に駆けつけてきた。出演時間の18時30分までに、なんとか全員がそろった。 

すべての演目が終わると20時近くになっていた。楽器の積み込みの後、隣の会場で行われていたパーティに合流した。京都の白川に住むデンマーク人だけど、お茶の先生でガムラン好きのビスゴーさんに、。「お面をしていても、踊りで、あなただと分かりましたね!」と、声をかけられた。ビスゴーさんが自宅で行っているお茶会で踊ったことがあるのだ。 

先に出たトラックの運転手を追い掛けて、帰路につく。豊中の実家で眠っているブナをピックアップし、いつもは乗らない箕面トンネルを使ってスペース天へ。運転手さんと楽器の積み下ろし。「巨人、優勝しましたよ。」と力無い声で教えてくれた。天の冷蔵庫で冷えていたリポビタンを勧めた。運ちゃん、頑張って帰ってや! 

家へ戻ると、踊ったふたりからメールが入った。それぞれの感想だった。 

人前で踊るって、とても大変なことだよね。中之島公会堂のような歴史のある空間で、しかも生ガムランで踊れるのは、とても貴重な体験だなぁ。そして、ジャワ舞踊を踊れる人が少しずつ増えてきたなぁ。 

と、コンサートの余韻を楽しむ。食卓の上のリュックを開けて、弁当箱を開けると空っぽになっていた。頑張って食べたんだろうな。 

8年ぶり (2008/10/14)












ちょっと振り返って日記を書きます。 

9月23日火曜日 
毎週火曜日は、阪急石橋駅近くにあるバレエスタジオの1階でジャワ舞踊のレッスンをしている。今日は、見学の方が来られることになっていた。「こんばんは。」と、元気な声で若い方が入ってきた。 

「Sさんて、ずっと前に僕に手紙をくれたことありますよね?」 
「はい!」 

そうだやっぱりだ。見学希望のメールの始めに、「はじめましてSです。」と書いてあったが、名前に見覚えがあったのだ。そして、顔を見た時にも、ザワッと記憶が波立った。 

手紙の文面はよく覚えていた。2000年にジャワでの結婚後、帰国してまもなくの頃、産経新聞に結構大きく取り上げられた。その記事を見て、高校3年生のSさんが新聞社に僕宛の手紙を書いたのだ。 

今、引き出しの奥にあるSさんの手紙を読み返すと、言葉遣いに気をつけながら、何度も書き直しながら書いた跡がある。その手紙が縁で、その時に1回会ったのだ。実を言うと、手紙の記憶は鮮明だが、会った時のことはあんまり覚えていない。 

その後、Sさんは大学に入ってインドネシア語を専攻し、バンドゥンへも留学された。そして、今は就職してOLをしている。 

「どうして、今、ジャワ舞踊を始めようと思ったんですか?」と聞いてみると。先月、京都造形大学であったバリ舞踊のコンサートを見に行ったからだという。80才を越えるイブ・チュニックが踊ったのだ。 

「イブ・チュニックの年まで踊れるんだったら、今の私でもまだ間に合うかも知れないと思ったんです。」 

おもわず笑ってしまった。Sさんは、まだ20代半ばである。でも、僕自身もそうだった。 
僕が留学したのは、26才の時である。まわりの人間も、そして自分自身も、踊りを始めるには、年を取りすぎていると思っていた。もちろん、若いうちに始められればいいが・・・、でも最近では、年をとってから始めても意外といいことが結構あると思っている。 

とにかくSさんは、一念発起してジャワ舞踊を始めることにしたそうだ。8年ぶりに再会したSさんと会うのは、2回目だけれど、なんだか懐かしい友人に会ったような感じがした。 

ビエンナーレ クロージング・コンサート (2008/10/01)

おおがきビエンナーレが、9月28日に終了した。ガムランは、10日間武徳殿に据えられ、いろいろなイベントが行われた。 

僕は、オープニングコンサートで、三輪眞弘さんの「愛の賛歌」と大学院生松本さんの作品のためのダンス、大垣祝祭ガムランコンサートで、ジャワの古典舞踊、クローングコンサートで、再び松本作品とワークショップの成果発表のダンス、を踊った。 

また、ダンスのワークショップを4回行った。少人数の定員で1回3時間だったので、参加者とも仲良くなって、じっくりと取り組めた。1回目には、たんぽぽの家の伊藤愛子さんにも講師として参加してもらった。その他の回には、イウィンさんにもアシスタントとして参加してもらった。今回は、ジャワ舞踊の動きのなかで発見した気づきを手がかりに、「からだのアンテナを張り巡らせよう!」というテーマで行った。 

例えば、2回目の時には、 

ゴンやクンプルといった吊り下げ型のドラを揺らして、一緒に揺れる。鳴らして、響きを感じて、一緒に揺れる。響きの振動を額、頬、鼻、唇など体の部分で感じる。 

武徳殿の古い木の床の硬い部分と柔らかい部分を、振動、打撃音、手・足の感覚などで探る。ミシミシと鳴るところを探す。ミシミシ音をコントロールする。 

入り口から入ってくる冷たい外気を皮膚で感じる。気流の動きを感じて、一緒に動く。 

といったことをやってみた。参加者の皆さんは、揺れ続けるゴンとともにいつまでも揺れ続けたり、立て付けをチェックする家主よりも懸命に床をチェックしたり、昆虫の触角のように手をセンサーにしてゆっくりと動いた。 

僕たちのそういった姿を、同時に行われていた映像ワークショップの参加者たちが撮影した。

休憩しながら、その映像を見ると、見事に「見えないもの」が映っていた。ダンスチームは、響きや床の下や冷気といった視覚では見えないものを、視覚以外の感覚で探ろうと試みた。すると映像には、「見えないもの」がそれを探る人の動きによって見えていたのだった。 

映像のワークショップは、阪大のコミュニケーションデザインセンターの先生である久保田テツさんと本間直樹さんがナビゲートをした。参加者はビデオカメラを固定し、オンオフだけで1分間の作品づくりをした。 

また、別の日に行われたガムランのワークショップでは、ガムランを演奏したことのないサウンド・アーティストのニシジマアツシさんが、電車の時刻表を手がかりに、参加者たちとアーデモナイコーデモナイと作戦会議を開きながら、みんなで音楽づくりをした。 


3つのワークショップの成果は、28日に行われるクロージングコンサートで発表することになっていた。 

それぞれのWSの素材である 
たくさんの1分間の映像作品 
24時間の時刻表音楽 
見えないものを探る動きのダンス 

といった独立した部分と、動きと音と映像の即興的なコラボレーションの部分という2部構成になった。後半の部分は、ダンスで指揮をすることをアイデアとして、簡単なルールだけを決めて即興的にすることになった。 

50分間の公演は、あっという間に終わった。一気に秋の気配が漂っていた会場だったが、参加者のみんなの顔には汗が浮かんでいた。 


僕の今回の試みは、感覚を張り巡らせる、ということを参加者の皆さんと一緒に試みて、それがダンスにはとても大切であると伝えることだった。コンサートで、参加者の皆さんは、振付を決めず即興的に、その場を感じて動いてダンスした。ものすごくチャレンジングな試みである。大変だっただろう。でも、同時に失敗のない試みだとも言えるかもしれない。 

映像のワークショップの際に、久保田さんが「失敗はないんです。」と言っていた。ダンスも同じだ。すごく難しいことなんだけれど、今、この場所に、居合わせているだけでも奇跡であり、また同時に必然でもある、という心境になって踊れれば、動きがすべてダンスになるのだ。すごく難しいけれど・・・。 


即興ダンスを踊る時、僕は、周りの環境や他者の動きを鋭敏に感知し、次の展開をめまぐるしく考える。 

没入する 
そこから抜け出し、上から俯瞰する 
緊張をひらりとかわす 
他者と共振し、大きな渦を作る 
渦をスパッと断ち切る 

そんな自由自在な存在になれば、最高だろうと思う。 


しかし、僕自身も即興のダンスの後、穴の中に入りたくなることがよくある。今回の発表やワークショップでも、参加者に皆さんにはプレッシャーを与えたかもしれない。でも、そこにこそダンスの面白みがあるような気がしている。 

ビエンナーレ・オープニングコンサート (2008/9/22)

インドネシアツアー日記を中断し、日記が挿入されます。イベントがどんどん過ぎ去っていくのです。ツアーの方も、なんとか続けますので・・・。 

9月19日金曜日 
朝9時前に家を出て、10時ジャストに中川真さんを向日町の自宅でピックアップ。裏道を通って京都南から名神に。乗ってすぐ高速バスのバス停で、10時15分に岡戸さんをピックアップ。 

予定通りに分刻みのスケジュールが進む。結構得意なんです、こういうの。5分前におなじバス停で、家高さんをピックアップした本間さんのフィアットを追い掛ける。関ヶ原の出口近くで追いつく。予定到着時間の12時に、大垣城着。 

現地は雨模様。楽器の積み下ろし、そしてセッティング。会場は、城内にある古びた木造建築「武徳殿」。ガムランが配置されると俄然いい雰囲気になった。ここが「おおがきビエンナーレ」のオープニングとクロージングのセレモニー会場になる。 

この日演奏されるのは3曲。大学院生の松本さんと斉藤さんがこのために作曲したガムラン作品と三輪眞弘さん作曲の「愛の賛歌」。リハーサルが終わり、暗くなり始めると観客が集まり始める。来賓も多く、ビエンナーレのオープニングという雰囲気になってきた。 

来賓挨拶などが終わり、コンサートの開演。まずは、松本さんの作品。この作品で、僕は楽器と4つのスピーカーに囲まれた四角のなかでぐるぐると回る。1周1分弱で25周。僕の回転が楽譜の一部になっている。音に耳を澄まし、身体に中性浮力を持たせる感じにして、空気を感じながら、微妙に速度や揺れ方を変えながらぐるぐる回った。 

2曲目はダンスなし。そして、3曲目は三輪さんの「愛の賛歌」。これは、去年のフェニックスホール、碧水ホール、そして今年のスペース天でのイベント「森のコモンズ」での2回の公演に続き、5回目の上演だった。初演の時には、Mさんと大石麻未さんが踊り、2回目以降は僕が加わった。しかし今回、Mさんと大石さんが参加できなくなったので、急遽イウィンさんが踊ることになった。 

最初の2曲ともとてもマニアックな作品だったが、満員の観客はすごい集中力で、会場には熱気が満ちていた。「愛の賛歌」で、僕は、その熱気の粒子を感じながら踊った。終演後、大きな拍手が響いた。三輪さんもちょっと興奮しているようだった。 

今日、三輪さんからメールがあり、雑誌「洪水」の編集者のブログに批評があると知らせてくれた。勇気づけられるコメントだった。 

http://kozui.sblo.jp/ 

僕とイウィンさんはダンサーなのに、マルガサリという音楽グループのメンバーである。僕らの存在によって、マルガサリも単なる音楽グループからかなり境界を越えてきていると言えるかも知れない。ジャワでは、音楽とダンスが相互乗り入れ的だ。どちらもできる人が、当たり前にようにたくさんいる。 

僕は、マルガサリで踊る時、音楽が伴奏であると感じたことがない。音とダンスがともにある、感じ。これは、きっと大切なことだと思う。 

自分の踊り (2008/09/19)


8月27日水曜日 

朝から小学生たちとワークショップ。ハードスケジュールである。タマゴを1日に4個食べ、日本では超多忙なスケジュールをこなしている中川真さんが予定を組むとこうなってしまうのだ。 

10時に、5月のガムラン・プロジェクトツアーでも訪れたニティプラヤン村に到着。。今回のチラシとブックレットをデザインしてくれたオン・ハリ・ワフユさんのアートスタジオがあるのだ。近くにあるアラム小学校の子供たちがたくさんやって来ている。アラムとは自然という意味で、自然を通じた教育を行っている私学の小学校とのこと。次から次へと子供が増えてくる。 

桃太郎の中に出てくる歌をみんなで歌ったが、反応は今ひとつ。次に、ロフィットさんや野村さんの音楽で鬼のダンスを踊ってみた。途中からみくりちゃんも入って、やっと盛り上がってきた。ここまでで休憩。西さん、佐々木宏実さん、ロフィットさんの司会で、桃太郎のことや日本語の説明をする。子供たちはノート片手にメモを取っている。まずまず満足してくれたようだ。これで授業終了かと思いきや、真さんがタマゴ大王のかぶり物をして、またやり出した。本当にタフな大王である。ともかくワークショップ終了。 

昼ご飯は、アートギャラリーも併設するクダイ・クブンでナシ・ゴレン。たまたま、ジョグジャのコンテンポラリーアートの拠点であるチュムティ・アート・ハウスを主宰するニンディティヨさんとメラさんの夫婦もランチ・ミーティングをしていた。桃太郎を見逃したと残念そうに言っていたので、夜のISIでのコンサートに来るようにすすめた。 

プジョクスマンへ、夜の公演のためにジャワ舞踊の衣装を借りに行く。スティヤさんが待っていてくれた。 

プジョクスマンには、1900年に建てられたジャワの伝統的木造建築物であるプンドポがある。2006年の地震で大きなダメージを受けたが、今年の3月に修復が完了し、舞踊の練習が再開している。ジャワでも、伝統的な建築のなかで、伝統舞踊の練習が行われている場所は数少ない。建物は、ソコ・グルと呼ばれる4本の大きな柱とそれを結ぶ梁がつくる直方体で支えられている。踊り手は、その直方体の中心で踊るのだ。 

ジャワ舞踊では、垂直や平行が重要である。地面に対して前傾せず垂直に背骨をのばし、柱が作る東西のラインに肩や腰を平行させて立つ。そのために、柱が重要な目印になっている。そうすると踊り手は、自分の身体の延長線が感じられるようになってくる。 

柱はジョグロといわれる山を象った屋根を支えている。ジョグジャの王宮の30キロ北には、ジョグロと同じ形をした3000メートル近い活火山であるムラピ山がそびえている。プンドポで踊ると、大きな山の懐に抱かれて世界とつながっていると感じることが出来るのだ。 

ジョグジャの舞踊はとても様式的で、時にぎこちないと評されることもある。垂直や平行を保つために、からだに無理を強いることがあるからだ。そこには、こんな理由があるのだと僕は考えている。 


スティヤさんに、昨晩の感想を、再びは聞かなかった。高度に様式化されたジャワ舞踊の世界と、なんでもありの混沌とした桃太郎の世界とが、簡単に出会うことは出来ないだろうから。

夜の演目、ゴレッ・アユンアユンとクロノ・トペン・アルスの衣装を借りた。こちらは、衣装も様式美の世界である。 

ジョグジャの町中から6キロほど南にあるISIのキャンパスへ向かう。田んぼの中に、突然キャンパスがあらわれる。ここも震災で大きな被害を受けたが、すでに新しい立派な校舎が建っている。中庭にあるプンドポが今晩のコンサートの会場である。ISIの授業や公演で何度も踊ったことがあるので、僕にとっては懐かしい場所だ。しかし、ここのプンドポはコンクリート製で、ソコ・グルの間隔もおかしい。とてももったいなく、残念なことだと思う。 

プンドポの横に、バッソ(肉団子スープ)の屋台が止まっている。留学していた時と同じおじさんである。むこうも僕のことを覚えていた。懐かしいので注文する。5000ルピア(約60円)なり。 

マルガサリの演目は 
古典曲 スレブラとエロエロ・カリブブル 
古典舞踊 ゴレッ アユンアユンとクロノ・トペン・アルス 

僕が踊るのは、クロノ・トペン・アルス。仮面(トペン)を付ける舞踊で、なかなかの難曲である。アルスとは、男性の優形のこと。これに対し、荒型はガガという。クロノ・トペン・ガガを踊るジョグジャの人は多いが、なぜかアルスの方を踊る人は多くない。ジャワ人の理想的な究極の人間像は、知的で優美でクールなアルスなのに、である。 

本番は、ちょっと力んだりして、自分では不満足な部分もあったが、無事終了。着替えて出てくると、客席には、ISIの先生がたくさん座っていた。なかでも、この舞踊を踊ることもあるバンバン・プジャスウォロさんとスパドモさんがいたので、公演後だったが思わずドキリとした。別々に、少し話をうかがった。ふたりともジョグジャきっての舞踊家であり、特にアルス(男性舞踊の優形)が専門である。 

舞踊に関する特別のコメントは無かった。 

普通の出来事のように扱ってくれたのだ。ジャワの人はおおらかに見えるけれど、こと舞踊に関しては、舞踊のテクニック、衣装の着こなし、メイクの仕方、心のありようなどにとても厳しく、そして細かいダメ出しをする。先生たちと雑談をしながら、僕はさまざまことを思い出した。ふたりの先生は、「サクマ、外国人がなぜジャワ舞踊を踊るのかとか、その意味は何かとか、いろいろ考えすぎず、自分の踊りだと思ってのびのび踊りなさい。」と言ってくれているような気がした。 

舞台では、僕のガガ(荒型)の先生であるサンティヨさんが主宰するイラマ・チトラ舞踊団の子供たちが、ジャワ人の解釈による「桃太郎」を上演し始めていた。子供たちがのびのびと踊っていた。 

    オラン・ギラ クレージーな人々 (2008/09/11)

    8月26日火曜日 

    朝起きるとたいぶ体調が良くなっていた。 
    イウィンさんが近所で買ってきたバナナの葉に包まれたブブル・クタン・ヒタム(黒餅米の甘いお粥)を食べる。お粥といっても水分はあまりなく粒あんみたいな感じ。とてもおいしい。

    我が家に泊まっているみんなも起き出してきた。そこそこ元気な顔をしている。スタジオにマットレスを並べて、修学旅行みたい。雑魚寝だがそれなりに快適にしてくれているようだ。スタジオの一角にはガムランの楽器があり、舞踊の練習も出来るようになっている。スタジオに付随する南側の部屋には、ISIジョグジャに留学中の田渕ひかりさんが暮らしている。北側の部屋には、体調の悪い林加奈ちゃんとそれを見まもる西さん。後の4人(キュウちゃん、麻未ちゃん、バミオ、尾崎クン)が大部屋に雑魚寝。昨夜、マリオボロ通りへ夜遊び行った尾崎クンはまだ寝ている。どうやら無事に帰ってきたようだ。 

    中庭には、大きなマンゴーの木がある。たくさん実が成る年には、何百ものマンゴーの重みで枝がたわみ、地面に届きそうになる。残念ながら今年は不作のようだ。木の下に停めてあるキジャンがパンクしていたので、ジャッキを出してスペアタイヤに交換した。 

    イウィンさんとブナはバイクに乗って、近くのパサール・スントゥル(市場)へ食材の買い物へ出かけている。昼ご飯は、ソト・アヤム(鶏の酸っぱいスープ)。僕は、中庭に面した寝室の前のテラスで入念なストレッチをする。すこしずつ身体に力がみなぎってきた。なんとか公演に間に合いそうだ。 

    ジョグジャに着いてから、真さんと野村さんから別々にコメントをもらったが、内容は同じ。ジャカルタ公演の鬼は、なんだか遠慮しているようで物足りなかった。予定調和でなく、もっと舞台上で生き生きと動いて欲しい、と。 


    16時前にタマン・ブダヤへ入る。 
    楽屋が賑やかだ。留学組の3人、田渕さん、岩本くん、西田さんに加えて、ガジャマダ大学に語学留学中の山崎弓子さんも手伝いに来てくれた。日本にいる頃、彼女にインドネシア語のレッスンをしていたのだ。 

    みんな、旅の疲れがたまっていたので、アメリカの大学でヨガも習っていた岡戸さんが「疲れの取れるヨガ」教室を開いてくれた。それからメイク、そしてお弁当。弁当を食べながらウティさんと話をした。 

    ウティさんと始めて話したのは、1996年。横浜ボートシアターとISIジョグジャが共同で「耳の王子 カルノ・タンディン」という音楽・舞踊劇のジョグジャ公演をした時のことだ。ウティさんはISIの教官で、王女クンティを演じた。僕は留学して2年目に入った頃で、現地通訳兼お手伝いとして公演に参加した。この公演では、僕がジョグジャへ留学するきっかけとなった舞踊の名手ベン・スハルトさんがアルジュノ役をしていた。インドネシアへ送られた日本兵の物語とマハバラタのカルノとアルジュノの戦いが劇中劇で進行するシナリオだった。公演は、ジョグジャのプンドポ・ノトプラジャンで行われた。開演前、公演が無事に行われるようにと、ベンさんが祈りの舞いを踊った。雨期にもかかわらずその日は夜まで雨が降らなかった。公演の直後、ものすごい勢いで雨が降り出した。そのベンさんは、97年の12月に亡くなった。 

    ウティさんが言った。 
    「サクマ、ジャカルタ公演はギラで良かったよ。」 

    ギラとは、クレージーのことである。ジャワの芸能はどれもクレージーである。ワヤン(影絵芝居)は8時間も続くし、ブドヨという女性9人の舞踊は3時間以上踊り続けられる。伝統音楽や舞踊の先生もみんなクレージーである。芸能の神に取り憑かれたオラン・ギラ(クレージーな人)ばかりだ。中途半端は許さない人たちの集まりなのだ。 

    そうか、もっとギラになればいいんだと得心した。 

    ウティさんは、ジャワ王宮の宝物であるブドヨ(女性9人の舞踊)のえげつないパロディも作るジョグジャでもとびきりのオラン・ギラの舞踊家なのだ。聞けば、日本を代表するクレージーな舞踏集団である大駱駝館のニューヨーク公演にも出演したという。 

    19時前になると、会場であるタマン・ブダヤ・ソシッテットにどんどんお客さんが集まってきた。小ホールのなので、キャパは350席ほど。開演時間には、客席の通路までぎっしりと詰まった。 

    僕自身にとって、この夜は、ジャカルタ公演とはひと味違う力の入った公演になった。たぶん、みんなにとっても。特に4場は、今までに無かったような混沌が訪れた。「こうしなければならない。」という枷が外れ、「もうどうなっても知らないよ。好きなようにするからね。」という感じが立ち現れ、一瞬、舞台に自由な空気が流れた。 

    公演終了後、スティアさんに会った。プジョクスマン舞踊団代表の60代の女性舞踊家だ。留学の最初から現在まで、一番お世話になっている先生である。7月には、大阪の我が家に5日間滞在し、京都で行った舞踊教室の生徒の発表会にも来て、講演をしてくれた。 

    しばらく黙っていた。 
    「少し長かったね。」 

    何とも言えない表情をしていた。 
    クレージーな伝統舞踊の先生である。こういう人たちがいて、伝統舞踊は守られてきたのだ。

    今回のツアーメンバーの中には、ジョグジャに留学したり、授業に来たり、ガムランを習いに来たりしたことのあるメンバーがたくさんいる。みんながそれぞれのつながりを持っている。ロビーのあちらこちらに、いつまでも出演者を囲む輪が出来ていた。