2013年4月2日火曜日

プジョクスマン舞踊団来日 (2009/10/26)

ヨーロッパの日記の続きもまだだし、大阪ピクニックのことも、からだトークのこともまだ書いていない。その後、1週間東京遠征に行ってきたので、そのことをまず書こう。ますます順番が錯綜してきています。すみません。 

10月18日 

6時30分に、豊能町の我が家を出発。京都東まで地道で走り、名神に乗る。初のETCレーン通過。前日に取り付けたのだ。途中、富士山がきれいに見えるSAなどで休憩しながら、昼頃東名から首都高へ入る。勘を働かせて、皇居の北のあたりで高速をおり、神田にあるカルティカのスタジオを目指す。すこし迷ったが、予定時刻の13時に、須田町交差点に無事到着。万惣という落語に出てくるくらい古い果物屋のビルの地下にスタジオがあった。中へ入っていくと、ジョグジャの舞踊団の懐かしい面々に再会。もちろん田村史さんやサプトノ先生もいる。みんなも福岡から午前中に飛行機でやってきたのでややつかれた様子。乗って来た車を駐車場へ入れる。親切なおじさんがいて、出し入れ自由で1日2000円にしてくれた。5泊させるので大助かりだ。コインパーキングだとこうはいかない。14時過ぎから、練習開始。 

今回のコンサートは、ジョグジャのマルドウォ・ブドヨ舞踊団(通称プジョクスマン舞踊団)と東京のガムラングループ、カルティカ&クスモとの合同公演なのだ。僕たちは、大阪から助っ人として、衣装や小道具も持参して駆けつけた。僕は、ジャワへ留学中、この舞踊団で習い、ある程度踊れるようになってからは、メンバーとして舞台に立たせてもらっていたのだ。今でも、ジャワへ行けば、舞台に立たせてくれる。2006年に起こった中部ジャワ地震の時には、建物に大きな被害を受けた。そこからなんとか建物も活動も回復した。今回の来日公演はその節目という意味合いもある。あたらしい若い世代のステップアップとしての公演。 

練習は21時頃まで続き、みんなバテバテペコペコになって、神田駅近くの中華料理屋で遅い夕食。そして、ホテルへチェックイン。オリンピック・イン・神田、なかなか広い部屋で快適。 

10月19日 
午前中、プジョクスマンのメンバー4人とサプトノ先生、ブナ、そして僕とで、中目黒にあるインドネシア大使館へ。教育文化部にいる疋田さんと久々に再会した。インドネシアへ留学したことのある人はみんなお世話になっている方だ。何度か手紙でやり取りしていたが、会ったのは本当に久しぶりだった。担当官にも挨拶をして大使館を後に。神田へ戻って、昼ご飯をテイクアウトして、ホテルへ。イウィンさんはやや風邪気味。 





夕方よりスタジオで練習。今回、僕は舞踊劇で二つの役をすることになっていた。ラマヤナ物語のジャタユ(ガルーダ)という神の鳥役とアルジュノ饗宴でのママン・ムルコ役(イノシシの化身)。どちらも動物系の荒型の役。普段、アルスという洗練された人間の振りをする僕にとっては、なかなかチャレンジングな配役だった。また、舞踊劇というのは、単独の踊りとは違って、複数のダンサーが舞台上にいるので、音楽が必ずしも自分のために演奏されているとも限らず、自由自在な即興能力が必要とされるのだ。一つ一つの舞踊を深めていくのとは、ちょっと別の能力が要求される。こういう臨機応変な能力は、その文化の中で育った来たジャワ人の得意とするところだ。留学中の僕は、なかなかこの臨機応変能力を身につけるのに、苦労した。この日の練習で、僕は、自分の出番のきっかけ、殺陣の順番などを覚えるのに必死だった。物覚えはあまりよくないのだ。 

10月20日 
ジャワからやってきたプジョクスマン舞踊団のメンバーは10人。団長のスティアさん、スマルヨノさん(ISIジョグジャの舞踊科の先生)、スプリヤントさん(ISIソロの舞踊科の先生)、スワントロさん(SMKIジョグジャの舞踊科の先生)、アリンさん(スティアさんの息子、ISIジョグジャの卒業生)、ドゥウィさん(ISIジョグジャの学生)、プトゥリアさん(ISIジョグジャの卒業生の舞踊家)、プトリさん(教育大学舞踊科の学生)、シトさん(事務職兼舞踊家)、カシラさん(花形の歌手)といったメンバー。男性5人女性5人。プトリさんとシトさんを除いては、みんま前からよく知っているメンバーだ。この日の昼食は、ちょっとリッチにすき焼き定食を食べた。ご飯のお代わりが自由だったので、スワントロさん、ドゥウィさん、スマルヨノさんは3杯もご飯を食べた。ジャワ人は、白ご飯が大好きなのだ。 



昼から、僕は鳥とイノシシの個人練習。まだまだ振りがしっくり来ていない。夕方より全体練習。練習後、楽器の梱包、衣装の梱包。その後、スタジオ横の閉まりかけていた定食屋の大将に無理を言って、13人分の豚生姜焼きと鶏の照り焼き定食を作ってもらう。ジャワ人なのに豚?スワントロさんはクリスチャンだし、スマルヨノさんは肉だったら何でも大好きなのだ。調理中に、ブティア(スティアさんへの敬称)のリクエストで、野菜の煮物を別の居酒屋へ探しに行く。親切な店があり、人参、ごぼう、コイモ、インゲン、大根をパックにきっちりと詰めてくれた。定食屋へ大急ぎで戻り、大急ぎで食べた。ここもご飯とみそ汁がお代わり自由だった。スタジオへ戻って、楽器のトラックへの積み込みを手伝う。カルティカのメンバーは、晩ご飯を食べずにがんばっている。 

手違いで、4トントラックでなく2トントラックが来たので、翌朝も積み込みの続きをすることに。 

10月21日 
90年代前半にジャワに滞在し、プジョクスマン舞踊団の創設者であるロモサス(サスミントさんの敬称)から舞踊を習っていたKさんの家へ行くことになっていた。ロモサスは、僕が留学中の96年に亡くなった。それ以後は、ブティアが実質的な代表者としてがんばっている。Kさんは、その後アメリカへ留学し、今は東京の大学で先生をしている。しかし、舞踊はもう踊らないので、舞踊関連のものを譲ってくれるというのだ。練馬区にあるKさんの家へ。とてもいい加減な地図しか持っていなかったが、勘が冴えに冴えまくり、最短距離で下石神井の番地にたどり着き、家から10メートルのところで電話を入れた。プラスチックケース4箱分の衣装や小物をいただいた。 

ダラダラ渋滞する首都高をイライラしながら急いで神田へ戻った。出発時間には、なんとか間に合った。10時30分にホテルを出て、人形町の日本橋公会堂へタクシーで向かった。感じのいい運転手さんだった。今回の東京滞在中、舞踊団一行と行動していると、タクシーでも、レストランでも、「どこからの方ですか?」「公演旅行ですか!」「すごいですね!」と、こちらのことに興味と敬意を持って接してくれる人が多かった。東京は、なんだかんだ言ってもやはり文化レベルが高いのかな・・・。 

楽器を搬入し、衣装の用意を整えた。スリンピ(女性4人)、ラウォン(男性3人)、ゴレッ(女性1人)、舞踊劇2演目、これだけの衣装を配役別に並べるだけでもなかなかの大仕事である。昼食後はリハ。今回のびっくりは、福澤達郎さんの作曲の「時の汀」で、ブティアが踊ることになっていたことだ。彼女は、王宮の舞踊顧問でもあり、バリバリのコンサバである。ジャワでも、新作舞踊公演を見に行くと、眉をひそめて帰ることが多い。おそらく史さんのアイデアだろうが、ブティアが日本人の新作で創作舞踊を踊るのだ。リハでは、すこし戸惑い恥ずかしがりながらという感じだった。 



本番は盛況だった。ガルーダもなんとか務めることができた。もっとも、舞台袖から見ていたブナからは、厳しいダメ出しがあったが・・・。「パパ、最初の飛ぶところが、練習のときより遅かった。後、ドソムコに襲いかかるときは、後ろから行かないとアカンねんで~。」、と。見事な突っ込みである、図星だった。ブティアの舞踊を袖から眺めた。余韻の長い響きが続いた後、胸騒ぎを起こさせるような打ち付けるような音が聞こえ始めると、ブティアの顔がサッと変わった。ドキッとした。ロモサスが現れたようにも見えた。史さんと薄暗がりの中で顔を見合わせた。終演後は、ロビーで来てくださった皆さんと歓談。予想外に、僕の知っている人がたくさんいて、お話しできた。みなさん、ありがとう! 


10月22日 
午前からホールに入って、昨晩の衣装の片付けやら、準備やら。そしてリハ。楽屋で着替えているとクラクラした気分に襲われた。同じようなメンツで同じようなことを、全然違う場所で何度何度もしていた風景が、においが、湿気が、音が、よみがえってくるのだ。 

・・・ ・・・ 

プジョクスマン舞踊団は、ジョグジャの貴族の屋敷内にある。貴族だが、誇り高き貧乏貴族だ。定期公演が夜の8時から2時間、週に3回行われていた。7時を過ぎると雨上がりのプンドポ(壁のないジャワの伝統的な集会所)の奥にある楽屋へ、三々五々舞踊家や演奏家が集まってくる。顔を合わせると、ポーンと丁字タバコをほってよこし、遅れてマッチも飛んでくる。薄暗い裸電球の下、湿ったコンクリートの上にはビニールのござが敷かれ、真ん中にはカネ製のお菓子の丸い入れ物に化粧道具が入っている。4角にかすかに残ったファンデーションをこそげとり、曇った鏡を覗き込む。時には、部屋で博打をするものがいたり、酒臭いままあらわれるものもいた。しかし、いかに客が少なかろうと一旦が舞踊が始まるとみんな真剣だった。舞台には、汗が滴り落ちた。ジョグジャの舞踊とはそんな種類の踊りなのだ。 

終演後は、近所の子供が舞台に上がってきて、残された楽器を弾いたり、猿や鬼や魔物になって踊って遊んでいた。バグス、インドラ、ドゥウィ、アリン、・・・。 

・・・ ・・・ 

15年近くたって、アリンやドゥウィは本物の踊り手になっていた。そして、日本へやってきて、東京の舞台で一緒に踊ろうというのだ。もちろん、15年ぶりに会う訳でなく、彼らが中学生になり、高校生になり、一旦は踊りをやめたり、また戻ってきたりするのも、見ているのだけど、なにか不思議な感慨があった。公演は、この日も盛況だった。名残惜しい人たちと別れて、撤収。楽器をスタジオへ運び終えると、もう12時近かった。 



10月23日 



練習と本番の間、まったく騒がずじっと見ていたブナのリクエストで、東京タワーへ。ホテルへ戻り、最後の昼ご飯を、みんなで食べる。そして、さようなら。プジョクスマンの一行は、東京芸大でのワークショップなど、まだ予定が少し残っている。僕たちは、狛江市に住む中村のびるさんの家へ泊ることになっていた。大阪へ戻る前に、最後の関所でちょっと一休み、って言う感じ。2階には、ワヤンのクリル(上演用の幕)があり、その横で3人で眠った。 

10月23日 
中央道~名神で豊能町の家へ戻ると18時だった。19時からは、阪大でリハがあった。翌日に行われる日本音楽学会主催のコンサートのリハ。三輪眞弘作曲「愛の讃歌」で踊ることになっていたのだ。さすがにちょっと疲れた。 

で、24日のコンサート本番へいたる訳なんですが、この日記はここまでにしておきます。

0 件のコメント:

コメントを投稿