2013年7月12日金曜日

可能性あり、そして、全く進歩なし (12/05/2010)

~先日遊びに来たジャワ留学が決まったやぶちゃんに話した、ジャワの先生のエピソードの続き~ 


20年近く前,ソロの郊外にあるS先生の家へ、2ヶ月間舞踊を習いに通った。風神の子である勇者ビモの飾りがある鉄柵を入ると,古い赤いバンが停まっていて,中庭にはナマズを飼っている池がある。鳩の小屋もある。横には、背の高いパンノキがあって、時折天狗のうちわのような巨大な葉っぱが勢いよく落ちてくる。少し薄暗い居間へ入ると,緑の薄いカーペットの上にガムランが並んでいる。壁には、若かりし先生が正装した写真が掛かっている。ヒンヤリとして鈍く光った床の上でレッスンを受けた。汗がタイルに滴り落ちた。犬が横切ると,先生はキックを入れる。踊りのことなんて,まだまだ何も分からなかった。先生や先生の家に下宿していた芸術高校の生徒だったN君に言われるがまま、ただ汗を流した。 

S先生といると、魔法使いのように思えた。もちろん、舞踊はうまいし、楽器もとびっきりうまい。それだけじゃなくって、ちょいとヒゲをさすれば,ジャワのごちそうが出てくるし、ウィンクをすれば,鳩が舞い降りてくる。動かなくなったバイクもちちんぷいぷいと直すし,ちょっとした病気もツボを押して治しちゃう。音楽,ダンス,動物,バイクや車,おいしい屋台,近所のおじさん,王女様,影絵芝居の登場人物、誰とだって,何とだって,ツーカーで自由自在にコミュニケーションできるようだった。まあ、こちらがジャワのことが全然分かっていなかったと言うのこともあるが・・・。でも、いまでもその印象は変わらない。こんな人になりたいと思った。 

2ヶ月の滞在は、あっという間に過ぎた。舞踊で使う盾と剣を持って,帰国した。しかし、いまだにその盾と剣を使って人前で踊ったことはない。ブナのおもちゃになっている。ジャワ舞踊は、2ヶ月習ったくらいでは何もものにならない。それでも、もっと本格的にやってみたいなあ,という気持ちがジリジリと高まった。それから少しして,日本でB先生と運命的な出会いをして,留学の決心をするが、その話はまた別の機会に。それから3年経って,僕はジャワへ留学することができた。留学中,ジャカルタに住んでいるTさんのところへ遊びに行ったとき,こんな話を聞いた。 

Tさんも、以前はジャワ舞踊を習っていて,S先生とも親しい。僕がレッスンを受けた直後,S先生のところへ遊びに行って,僕の話になったらしい。「サクマが舞踊を習いにきたんだって?どうだった?」とTさんが聞くと,S先生は「Ada kemungkinan.」と答えたそうだ。adaは、あるの意。mungkinは、ふつうは「たぶん」という意味で使うが,keとanが付けば,可能性という意味になる。「可能性あり。」ということ。うれしい言葉だった。 


留学をはじめて2年半が過ぎた頃,僕はプジョクスマン舞踊団の週3回ある定期公演にレギュラー出演するようになっていた。日本人の僕がこんなところで踊ってもいいのかな?お客さんは,外国人が踊っているのは見たくないんじゃないかな?などと迷うこともあったけど,僕はすっかりジャワ人の中に入り込んで,舞踊三昧の日々を過ごしていた。裸電球の下で,すり切れて湿ったビニールのござの上に座って,メイクをし、緑色のカネ製の机に用意された衣装を身につけた。前奏が始まると,薄暗い楽屋裏で、革のかぶり物を1回ギュッと締め直して,プンドポ(舞台)へと静かに歩いて進んで行った。 

そんな時期,ある日プジョクスマンのプンドポで,若い舞踊家が集まって練習していると,N先生がやってきた。小柄で柔道家のようにがっしりとしているが,機敏な身のこなしをする芸術高校の舞踊科の先生。14世紀に栄えたパジャパヒト王朝の宰相ガジャマダのような、太陽の塔の彫刻のような、目と唇が力強い表情の人、今は芸術高校の校長先生になっている。そのN先生がプンドポから少し離れた階段に腰掛けて,何人かで談笑している。しかし時折,ギラリと目が光っている。こっちの練習が一段落付くと,僕の方へやって来て,言った。 

「Mas Shin, akhir-akhir ini kok tidak ada kemajuan sama sekali? (マス・シン 最近,なんで全く進歩がないんだ?)」 

かなりきつい調子だった。目の前が真っ暗になった。こんなことを言われたのははじめてだった。ジャワ人同士でも,舞踊の先生は教えるために生徒のからだに触れる時,「Maaf, ya(ごめんなさいね)」と言ってから、指先で肝心の骨のところをちょこっと押す。そんな温厚なジャワの先生が,こんなきつい調子になるのはとても珍しいことだ。 

何日もこの言葉が頭をグルグル回った。それから、1年近く経っただろうか。プジョクスマンのメンバーで芸術大学の学生だったA君の卒業祝いのパーティが,プランバナン寺院近くのA君の実家であった時,N先生を含めて3,4人の輪ができて,ゆったりとしたおしゃべりの場になった。ジャワの田舎の家のヒンヤリとした床に座って,甘いコーヒーを飲みながら,茹でピーナッツの皮を剥く,丁字タバコの甘い匂いが漂う。N先生は,すっかり僕をジャワ舞踊の仲間として感じ始めているような接し方をしてくれた。とてもうれしかった。あの時に言葉は、そういうことだったのだ。もう、お客さんとしてではなく,本気で舞踊をする仲間として接するよ、そういう叱咤激励だったのだろう。 

本気で自分を信じてやれば,そこには可能性がある。しかし、その目指す道はそんなに簡単なものではない。

グッド・モーニング いい朝 (28/04/2010)

4月28日 
6時、ふとんの中で3回大きく伸びをして,思い切って起きる。イウィンさんはもう起きているよう。カエルの音が控えめに響いている。相変わらず机の下で寝ているブナもガバッと起きる。キッチンのストーブに火をつける。水を入れたやかんをのせる。コップ1杯の水を飲む。AMラジオのスイッチを入れる。だしじゃこを入れておいた鍋をコンロにかける。ネギを小口切りにする。なるべく細く一定になるように、そしてリズミカルに。朝の手と腕の調整。炊飯器からは湯気が上がる。湯気のダンス。小さなフライパンもコンロにかける。油を敷く。たまごをふたつ割って入れる。ワカメを水に戻す。タケノコを切る。ワカメをざるにあげて切る。鍋が水が沸いたら、タケノコを投入。納豆を粘りが出るまで混ぜる。匂いが立ってくる。たまごに塩とこしょうを振る。ネギと醤油を入れて、納豆をさらに混ぜる。たまごがだいぶいい感じ。炊飯器が歌ったら、濡らしたしゃもじで切るように混ぜる。湯気が踊る。鍋にワカメとネギを投入。味噌で味を整える。目玉焼きも完成。やかんもシュウシュウ。紅茶を入れる。 

いっただきま~す!みそ汁がからだに染みわたる。シンプルな朝飯だが、近所のものばっかりなので、とてもおいしい。米は,イウィンさんのパート先のKおばあさんの田んぼから。味噌は,ブナと一緒に登校するHさん姉妹のおばあさんの手作り。タケノコは、裏の竹やぶで取ったもの。たまごは、近所の直売たまご屋さんのおいしいたまご。野菜は,日曜日の朝市で買った地元の野菜。贅沢だなあ。これがおいしいっていうのが分かるのに,10年かかったなあ。2000年のゴールデンウィークに引っ越してきたので丸10年の田舎暮らし。 

ブナを送って,田んぼのあぜ道の途中まで行った。いってらっしゃい。3人は振り向かない。僕も、今日はあっさりときびすを返す。濡れた道,青い空,ヒンヤリした風。ああ、気持ちがいい。ヒキガエルの声,鳥の声。シラサギが田んぼで何かを探している。ツバメが低空飛行。おなかが黄色い小さな鳥が土手に挟まれた畦に沿って、リズムを刻んで飛んでいく。小さな棚田に張られた水の上にはアメンボウ。坂道に、桜の花の軸が並んでいる。防火水槽の手前でカーブした溝には、花びらが貯まっている。手ですくい出すと,パイプから防火水槽へと水が流れ始め、花びらのアメンボウを水中へ沈めた。 

毎日がこんなにのんびりしているわけじゃないんだけど,今日は、ほんとに気持ちいい天気。1年に何回かの贈り物のような朝だった。

田んぼはつながっている (23/04/2010)

雨上がり。家の前の溝に、勢いよく山からの水が流れている。防水槽の手前で水があふれている。桜の花びらがたくさん集まっている。ブナの登校につきあって、Hさん姉妹との合流地点へ。桜の樹が濡れて苔が浮かび上がっている。妹のチアキちゃんが、おばあさんと一緒にやってきた。「ブナくん、おはよう。」といつもの低い声。「おはよう。」とブナ。お姉ちゃんのミユキちゃんが少し遅れてやってくる。今日は、途中までついていこう。 

二本の大きな杉が立つ神社の参道の前で,みんなでパンパン。Hさんのおばあさんが、「お地蔵さんがあって,となりの集落の人が毎日花とお水をかえてくれるんですよ。」と教えてくれる。今日は紫の花。田んぼの間の道を下っていく。おばあさんが畦にスコップを置いた。ワレモコウの葉っぱが茂っている。まあるい柔らかい葉っぱ。家へ持って帰って植えるそうだ。赤というか茶色というかたくさんの花が咲くんだって。僕は,ここで引き返す。おばあさんはスコップを畦に置いたまま、1キロ先の隣の集落の合流地点まで送って行くという。 

坂道を戻る。小さな道の両側から水音が聞こえてくる。斜面に並んだ田んぼには,土が固められた堤が築かれている。鍬一つでするんだろうが,左官屋さんのように見事な表面を作り、エッジをだしている田んぼもあれば,もう少しおおらかな堤もある。かまぼこ型のビニールの中には苗が育っているのだろう。田んぼの水はゆっくり動いて、堤の切れ目から流れ出していく。田んぼの脇の水路に出ると勢いを増す。石垣を組んだ田んぼの脇をどんどん流れていく。土管や塩ビ管を使ったジョイント部分もある。電車の線路の切り替えのような古い板や鉄板で、水の流れを変えるスイッチ部分もある。田から田へと水路が巡っている。道の下を通っているところもある。新しくコンクリートのマスが埋め込まれたところもある。水は下りながら,段々と集まって,小川ができはじめる。この辺りは,余野川の水源なのだ。 

足下の地面が、張り巡らされた血管のような水路と水でつながっているのを感じる。生きものの中を歩いているようだ。田んぼと田んぼはつながっている。川は流れ流れて、大阪湾へ注ぐ。海はインドネシアともつながっている。ジャワのパラントゥリティス海岸に注ぐオパッ川をさかのぼれば,ジャワの田んぼとだってつながっている、と妄想が膨らむ。 

4つの話 先生の家へ遊びに行く、の巻 (16/04/2010)


4月12日 
野村誠さんと藪公美子さんを迎えにJR亀岡駅へ。前日に、京都の下鴨神社で結婚式をしたそうだ。やぶちゃんは、結婚してもやぶちゃんでいくらしい。車で我が家まで20分。ソト・アヤム(ジャワ風鶏肉の酸っぱいスープ)を食べて,我が家からすぐのスペース天であるマルガサリの練習へ。ガムランの伝統音楽をしたり、即興パフォーマンスをしたり。天のまわりには,オーナーの黒田さんが植えた300本あまりの桜があって満開だったが,残念ながら雨模様。 

やぶちゃんは夏からジャワへガムラン留学することになっている。去年までは,イギリスのヨーク大学に留学して,コミュニティ音楽で修士を取ったばかり。ヨーク大学でガムランに出会ったのだ。イギリスはジャワのガムランが盛んなのだ。僕と野村さんも,エジンバラ大学でジャワガムランを使った創作のための講義をやった。野村さんとやぶちゃんは、その時に出会ったのだ。イギリスからジャワへ行くと、かなりのカルチャーショックだろう、ということで、ジャワのエピソードをいくつか紹介することにした。 

先生の家へ遊びに行く、の巻 

僕は舞踊やガムランの先生の家へ遊びにいくとき,アポは取らない。いきなり行くのだ。その方が,いさぎよい気がする。無駄足を踏む覚悟。そもそも僕が留学当時,ジャワにも日本にも携帯電話はまだなかったし、ジャワの多くの家には、固定電話もなかった。何人かの先生の家には、電話があったが,それでもたいがいはアポなしで行った。ただ、先生の邪魔にならないように,先生や家族の行動やスケジュールを予測して,曜日や時間の狙いを定めた。月曜日の夜8時頃だったら間違いない、とか。空振りすることもあったが,出直せばいい。ジョグジャは狭いんだし・・・。で、だいたいは外れなかった。ジャワの普通の人たちもこんな感覚だったんじゃないだろうか。先生の家に着くと,子どもやお手伝いさんが出迎えてくれ,入り口近くの応接間や椅子で待つことになる。甘いお茶やお菓子,時には揚げ物や果物が出てくる。でも、それには手を付けない。3回くらいはすすめられないとね・・・,なんだか日本人みたい。 

たとえば、こんなことが何度かあった。男性舞踊の名手のP先生を訪ねると、まずは奥さんが出てきた。お茶をだしてくれて,応接間で待つことに。家族の写真などを眺める。しかし、P先生がなかなか出てこない。中にいるのは、気配で分かるんだけど・・・。途中でバシャーン,バシャーンと水音が聞こえたりもする。2、30分すると,ようやく濡れた髪にくしを当て,ぱりっとしたYシャツに着替えた先生が登場するのだ。よくやってきたと言って,握手をする。いい香りが漂ってくる。 

何年か経って,P先生とかなり仲良くなってきたあるとき、こんな話をしてくれた。あのね、僕はほんとは丘の上の大きな家に住みたいんだよ。で、家の前のベンチに腰をかけて,ゆっくりとくつろいでいると,マス・シン(マスはジャワの敬称)がバイクに乗ってくるのが,遠くから見えるんだよ。そうすると、僕はマンディ(水浴び)をする。ゆっくり着替えていると,マス・シンがちょうどやってくるんだ。小さくても一国一城の主が客人を迎える、そんなのが理想なんだよ,と小さな家の小さな応接間で語ってくれた。P先生の舞踊には、なんともいえない風格が漂っている。いつもこころの中に、ワヤン(影絵芝居)に出てくるヒーローが住んでいるのだ。 

女性舞踊の大御所のT先生を訪ねる時はこんな感じ。お宅は、貴族の屋敷の敷地内にある。熱帯の陽が少し傾くと、子どもたちは鳩を空に放つ,尾っぽの笛がブーンブーンと青空に旋回し始める。僕は,約束していたレッスンの時間に、先生の家を訪れる。こんな場合は、もちろんアポあり。お手伝いの女の子に、僕が来ていることだけを伝言して,練習をする貴族の屋敷の一部であるプンドポ(ジャワの東屋)へ行く。待てど暮らせど、先生は来ない。1時間くらいはざらである。でも、この時間がなんともいいのだ。プンドポの天井の中心部には、繊細な彫刻が施されていて、1900という数字も読み取れる。100年間,何千人もの舞踊家が汗を流した舞台なのだ。その端っこに腰を下ろして本を読んでもいいし,ストレッチをしてもいいし,ただただボーっとするのもいい。たゆたう風を感じ,床や柱の感触を感じ,過去の舞踊に思いを馳せる時間。ジャワ舞踊には,1演目が2時間を越えるものもある。そんな舞踊を踊るには、それなりの時間感覚をからだに染み込ませる必要があるだろう。そんなことを知ってか知らずか,T先生は、サンプル(踊り用のスカーフ)を片手に,なにくわぬ顔でゆったりと登場するのだ。僕の経験上,ジャワの先生たちは直感的に,必要なことが分かっているのだ。マス・シンには、こんな時間が必要なのだと。 

つづく。

    千の人、千の響き、千人が作る音の雲 (12/04/2010)


    4月10日 
    みんぱくで「Udlot-Udlot」の第1回目のリハーサル。フィリピンの作曲家ホセ・マセダの作品で、1000人が竹や声を使って演奏する。10月に、太陽の塔の下でやろうと準備中。マセダの弟子のアルセニオ・ニコラスさんが研究員として,みんぱくに来ているので,講師としてきてもらった。この日に集まったのは、イベントを主催する千里文化財団の織田さんと西澤さん、制作チームウドロ組(仮称)のHIROSさん、小島剛さん、岩淵拓郎さん、僕、それから、声をかけた友人たちで、総勢30名ほど。子どもたちも数名。 

    まずは、竹を切るところから始める。楽器作りが終わったら,楽譜の説明,パート分け、パート練習。そして、リハーサル。曲は40分間。僕は拍子木のパートに入った。 

    トントン トン トントン トン トントン トン 

    延々と繰り返す。歩きながらでもいいし,踊りながらでもいい。みんなで気を合わせて,早くならないように気をつけながら。でも、40分もやっていれば,だんだん考えることもできなくなっていく。次第に,音や動きに身をまかせるようになっていく境地。 

    竹や声のパートは、もう少し忙しい。今日は30名だったが,本番は1000人、30倍である。どんな音が立ちあらわれるだろうか。 

    本番へ向けて,当面、毎月1回練習をします。練習に参加しなくて,本番だけの参加も可能ですが,万博公園はとても気持ちがいいので,ぜひ遊びがてら練習にお越し下さい。練習というよりピクニック、ウドロ・ウドロ ピクニック。毎回が、ピクニックのような練習です。練習に来た人が,友達を誘って,またピクニックにやってくる。増えるとますます音が面白くなって,もっとたくさんの音の雲が聞きたくなって,また友達を誘う。そんな連鎖が生まれるようになればいいなあ。 

    次回の練習、いえ、ウドロ・ウドロ ピクニックは、 
    5月15日 14時~16時 万博公園 民族学博物館(みんぱく)特別展示室前集合 
    参加費は無料です。連絡をいただけると、みんぱくの入場券を先着順でプレゼントいたします。 
    http://www.minpaku.ac.jp/museum/information/access.html 


    長いですが,以下に、企画書の一部を載せます。 
    制作チームのウドロ組(仮称)は、HIROS、小島剛、岩淵拓郎、佐久間新。主催は,千里文化財団。 

    以下引用文 

    ・・・ ・・・ 

    千のひと、千の響き,千人が作る音の雲 

    ひとりひとりの作り出す音は単純だが、みんな集まると想像を超えた音の雲ができる。それは音を通した新しい経験、新しい音楽のかたち。 

    わたしたちは下記の要領で、「ウドゥロッ・ウドゥロッ Udlot-Udlot」公演を計画しています。多数(目標1000人)の演奏者が必要なため一般の人々の参加者を募集したいと考えています。企画主旨をご理解いただき、参加者募集活動にご協力いただければ幸いてす。 

    ■公演名/みんなの音楽(仮) 
    ■演奏曲/ウドゥロッ・ウドゥロッ Udlot-Udlot (ホセ・マセダ Jose MACEDA、1975) 
    ■日時(候補日)/2010年10月23日(土)、24日(日)、30日(土)、31日(日) 
    午後13:00~16:00(本番40分、リハーサル) 
    ■会場/万博公園お祭り広場 
    ■出演者/1000名 
    ■使用楽器 
    カルタン(打ち合わせ棒)・・・300セット(径30×長さ400~500mm/5種サイズ) 
    トンガトン(搗き棒)・・・400セット(径45mm~55×300~400mm) 
    ウンギヨン(通気孔つきフルート/ギロを兼ねる)・・・400セット(径15~17mm×150~200mm) 
    声・・・300 

    ■企画主旨 
     フィリピン人の現代音楽作曲家、ホセ・マセダ(1917~2004)によって1975年に作曲された「ウドゥロッ・ウドゥロッ Udlot-Udlot」には、「30人から数千人にいたる演奏者のための音楽」と付記されていま すが、この曲は専門的な音楽訓練のない人々でも演奏に参加することを当初から想定して作られたものです。 
     現代のわたしたちは、長い歴史をもつ伝統音楽はかろうじて残っているものの、ほとんどが西洋的システムに基づいて作られた音楽に取り囲まれています。また、音楽は他の生産物と同様に「商品」として生産され流通しています。しかし音楽は、専門家だけに委ねられるものではなく、本来、誰でも作ったり歌ったり楽しむことのできる人間の基本的な表現行為であり、人間のあらゆる活動と環境に密接なつながりをもつものです。東南アジア各地に広がる部族の音楽を調査したマセダは、そうした音楽の本来的意味と、西洋的システムとは異なる「東南アジア固有の音楽のアイデアを見いだし、それを基盤・出発点として新しい音楽をつくろうとしたのである。決してヨーロッパの模倣ではない、自前の音楽をつくることが彼の目的であった」(中川真)。その一つが今回の作品「ウドゥロッ・ウドゥロッ」です。マセダのこうした姿勢は、欧米のいわゆる現代音楽作曲家やアートに関心のある人々にも評価され、作曲された1975年にマニラで初演されたあと、日本(1991)、ドイツ(1995)、ブラジルなどでも演奏されました。 
     今回わたしたちが「ウドゥロッ・ウドゥロッ」を計画したのは、 
    1.多くの人びとが一つの目的を共有し祭り空間を味わう。 
    2.東南アジア固有の音楽思想を演奏を通して体験し、異文化の理解を深める。 
    3.千人の作り出す濃密な音の響きを楽しむ。 
    4.新しい音楽芸術のあり方を、聴衆としてではなく演奏することを通して体験する。 
    5.公演本番までのワークショップの積み重ねを通して恊働の意味を考え直す。 
    6.壁を取り除く-障害者、外国人など 
     以下は、作曲者自身がこの作品について述べたものです。 
    -----この音楽は単に無数の人びとが一つのメロディーを演奏したりうたう国歌のようなものではなく、むしろ多くの人びとにそれぞれ異なる音を演奏してもらうことによって、その音を拡大したり音量を大きくしたりしないで音を屋外でばらばらに散乱させるような音楽なのだこの音楽をこれだけ多人数に分担してもらうためには、演奏するものが単純な音で、しかも音楽が単純すぎて魅力のないありきたりのものにならないようにしなければならない。・・・ここでの重要な音楽要素は音の反復あるいは連続の原理の使用であり、これがこの作品の基本構造をなす。・・・この音楽を楽聖に演奏させることには、新しい境域的な価値がある。『ウドゥロッ・ウドゥロッ』のなかで一対の棒によって演奏されるリズム・パターンは、連続した三音、休止一つに続く一音で、全体では五拍のリズム・フレーズになる。五の単位で数えることは東南アジアの多くの音楽でも、また大部分の西洋音楽でもなじみのうすいものである。五拍リズムの意識は演奏者にも聴衆にもひとしく時間の別な尺度を紹介し、そこから物事の新しい秩序、あるいは人びとの別な思想や秩序にみちびくような新しい考え方を知らせることになる。楽器による「ピッチのない」音(あるいはうたえない音)や、音楽をするのに安価な地元の楽器をつかうこと、一音だけのメロディーという概念、リズムのない音楽や、音符のかわりに数字と記号の組による楽譜をよむことにも、教育的な価値がある----『ドローンとメロディー 東南アジアの音楽思想』(ホセ・マセダ著/高橋悠治編・訳、新宿書房、1989) 
    【ホセ・マセダ José MACEDA(1917~2004)】 
     マニラに生まれる。パリのエコール・ノルマル音楽院でピアノ、作曲理論、アナリーゼを学び、その後フィリピンでピアニストとして活動。コロンビア大学で音楽学、ノースウェスタン大学で人類学を学ぶ。1952年頃よりフィリピンの民族音楽のフィールドワーク。1954年頃にミュジーク・コンクレートを手がけ、1958年にパリ国立放送局のミュジーク・コンクレート・スタジオにて制作、ここでピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼン、イアニス・クセナキスらと知り合う。1963年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)にて民族音楽学の博士号を取得、同じくこの頃より作曲活動を本格化、マニラにて、エドガー・ヴァレーズやブーレーズ、クセナキスなどの作品を指揮・演奏するコンサートを1969年まで開催。 
     民族音楽学者として、東南アジアの音楽のフィールドワークを行い、多数の論文を発表する一方、東南アジアの楽器を用いた作曲を手がける。主な作品に、116人の楽器演奏者、100人の合唱と25人の男声のための「パクサンバ」(Pagsamba, 1968年)、100台のカセットプレイヤーのための「カセット100」(Cassettes 100, 1971年)、20のラジオ局のための「ウグナヤン」(Ugnayan, 1974年)、数百人から数千人のための「ウドゥロッ・ウドゥロッ」(Udlot-Udlot, 1975年)、10のフルート、10のバリンビン、10の平面ゴングのための「スリン・スリン」(Suling-Suling, 1985年)など。1990年代以降は管弦楽のための「ディステンペラメント」(Distemperament, 1992年)、管弦楽のための「リズムのない色」(Colors without Rhythm, 1999年)など、管弦楽やピアノのためにも作曲した。(Wikipediaより) 

    ・・・ ・・・

      桜、そしてSakura (09/04/2010)

      今日は,ブナの小学校入学式。いよいよ学校。桜がなんとか間に合った。天気も快晴。 

      大きな窓のある明るい体育館、歯切れのいい女の先生の司会で式が始まった。なんと第135回の入学式とのこと。校長先生のお話。 
      ・友達と仲良くしよう。 
      ・挨拶をしよう。 
      ・自分でできることは自分でやろう。 
      式が終わってクラスルームへ、1年1組。1組しかないんです。担任は僕と同年代のやさしそうな男の先生。教科書をもらったそのあとは,運動場へ出て,みんな大はしゃぎ。式の緊張からの解放といよいよ始まるっている期待感がいっぱいなんだろう。 

      ブナは,4月1日から育成室、通称学童へ行っている。学童では,宿題の時間がある。1年生は宿題がないので,紙に計算問題と時計の問題を書いてあげた。初日に帰って来ると,答え合わせをしてほしいと言うので,見てみると、何問か間違っていた。「よくできたけど,惜しいのもあるね~。」と直してやると,本人はすごくショックを受けているようだった。ああ、人生ではじめてのテストだったんだ! 

      これから、勉強が始まる。テストも始まる。勉強は楽しいんだって、思えるようにしていかないといけないなあ。反省、反省。 

      昨日,写真家の柴田れいこさんから、「Sakura 日本人と結婚した外国人女性たち」(日本カメラ社)という写真集が送られてきた。4月4日読売新聞の文化欄「よみうり堂 本」でも紹介されていたようだ。 
      http://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/20100310_353673.html 

      4年前の稲が黄金色に実った頃,柴田さんが泊まりがけで我が家へやってきた。翌朝,クバヤに着替えて,田んぼで撮影したのだった。東京での展覧会は終わってしまったよう。5月には、大阪で展覧会があるようなので、また告知します。 

      ブナは、明日は6時起き。3キロ徒歩50分の通学が始まる。僕も大変,しばらくはお弁当作らなきゃ。

      結婚パーティキャンプで、ファイヤーダンス (05/04/2010)

      4月3日 
      お弁当を作って、イウィンさんとブナとともに8時30分に出発。奥多摩のキャンプ場で、野村誠さんと藪公美子さんの結婚記念キャンプパーティがあるのだ。9時30分に向日市の祓い所公園着。ちょっといわくありの場所らしい。マルガサリの西真奈美さんと合流の予定だが,病院へ行っているとかで少し遅れている模様。10時過ぎに、西さんと合流。京都南から名神へ入る。中央道へ入り。恵那峡で小休憩。八ヶ岳を越えて行く辺りで、山小屋にいる坪井ゆゆさんに念を送る。が、後で見た彼女のブログによると,下山中とのこと。車内ではしりとりや歌合戦。ブナの語彙数がかなり増えてきた。 

      中央道の大月インターで下りる。1300円。安い。出たところのローソンで牛乳10本を買い占める。野村誠さんに頼まれていた買い物。何に使うのだろう。くねくね国道で山をいくつか越えて行く。雪も残っている。2時間近く走り、17時30分頃ようやく奥多摩のキャンプ場に到着。野村幸弘さん、片岡祐介さん、尾引浩志さん、柏木陽さん、樅山智子さんとか知った顔も見える。コック長は美術家の島袋道浩さん。肝心の二人は山を散策中とのこと。すでにいくつもあるかまどからは煙が上がっている。ブリの一夜干し、塩ゆで豚,各種サラダ,尾引さんが釣ったニジマスの薫製、チーズの薫製などなど。ビール片手にいろいろつまんだ。島袋さんのブリは絶品,今出ている「暮らしの手帖」で、なぜか美術家の島袋さんがひものの作り方を講習しているらしい。 

      野村さんとやぶちゃんも戻ってきた。しばらくするとキャンプファイヤーの時間。みんなが河原に下りて行く。かまど火の番をするために、ひとりで残ることになった。星がきれいだ。谷底から鍵盤ハーモニカの音が向かいの崖に跳ね返って聞こえてくる。気分がうずうずしてくる。料理番が得意な広崎さんが交代に上がってきてくれたので,河原へ下りて行く。段々近づいて行くと、野村さんが、 

      「佐久間さんどこですか?まずは、佐久間さんの波からやりたいんですけど・・・。」みたいな声が聞こえてくる。ちょうどいいタイミングだったのだろうか? 

      火がゴオゴオと燃え,後ろの谷からは冷たい風が吹いてくる。その上に北斗七星が瞬いている。火の周りに赤くなったみんなの顔が並んでいる。ブナは石の上に腰をかけているようだ。野外で、火を挟んで、波を送るのははじめてだったが,周りの空気を感じながら,ゆっくりと波を送った。なかなかみんなに届きにくいかもしれないが、ゆっくりと何度も送った。右側から深い呼吸の音が聞こえてきた。作曲家の近藤浩平さんかもしれない?ほぼ同時に,左から鍵ハモの呼吸も聞こえてきた。火の周りをゆっくりと回った。やぶちゃんが仮面を渡してくれた。ヒモもなく、くわえることもできなかったので,左手と右手とで交互に押さえながら,火の周りを舞った。仮面のおかげで顔が熱から守られた。火の粉とも舞った。時折,杉の小枝で、火の粉を巻き上げた。時折,誰かが背中に乗った火の粉を払ってくれるようだった。仮面をしているので,周りがほとんど見えないのだ。 

      ダンサーの遠田誠さんと高須賀千江子さんが出てきて踊りだした。僕はちょっと休憩。白神ももこさんが出てきて,僕を招いている。おばあさんになって二人で踊った。どんどんばからしくなって行く。キャンプファイヤーなんだから仕方が無い。おなじアホならおどらなソンソン。 

      火が収まってきた。途中で気づいたが,左目のコンタクトレンズが無い。僕は目が出っ張っているので,仮面を付けると当たって落ちやすいのだ。夜中の河原,どうしようもない。火が収まったので,上のかまどへ戻った。ロッジに移って、集まった人たちのパフォーマンスが始まった。僕は、厨房が気になるたちなので、かまどに残ってご飯のお釜の番をした。水を調節しながら,この日、厨房で大活躍だった広崎さんとともに,ご飯を炊いた。カレーも温まり,夜食の準備が整った。ブナと音響の専門家の五島昭彦さんの息子のだいちゃんが、辛くない方のカレーをお代わりするほどたくさん食べた。 

      ロッジへ戻ると、やぶちゃんと桜美林大学で同期だった友人たちのアイリッシュバンドの演奏が始まっていた。ダンス音楽である。踊るしかない。吉野さつきさんとノリノリで踊った。その後は,池田邦太郎さんの音楽の話。元小学校で音楽の先生だったけれど,学校を辞めちゃって,音楽を追求しちゃった人。テーブルの上にある一番搾りの500缶で、あっという間に宇宙の音が聞こえる楽器を作ってしまったり。ストローをどんどんつなげたり,切ったりして、ユーモアにあふれるのに、管楽器の根源を考えるようなパフォーマンスをすごい勢いでやったり。すごい迫力である。その後は,あいのてさんのコンサートがあったり,島袋さんの輪ゴムくぐりがあったり、宮田篤さんのらくがき作曲があったり。中村未来子さんのチャイも出てきた。牛乳10パックはここに使われたのだ。すっかり、いい時間になったので,屋根裏部屋に上がって,あったかい布団に潜り込んだ。 

      4月4日 
      朝ご飯を食べて,片付けをして、チェックアウト。河原へ出て,みんなでコンタクトレンズを探してもらった。みんなが一心に石を見て,静かに注意深く動く様子はダンスであり,石の音や水の音は音楽だった。河原でコンタクトを探すにはかなりいいメンバーだと思ったが・・・。片岡さんが小さな青い丸いガラスを拾った,コンタクトが熱で変成したのかもしれない・・・。 

      キャンプ場のすぐ横のもえぎの湯へ。さっぱりして、みんなとさようなら。こんな結婚パーティキャンプは、なかなか無いだろうな。本当に楽しく,気持ちのいい人ばかりで、いい時間を過ごせた。野村さんとやぶちゃん、いや、やぶちゃんじゃなくなったのかな?公美子さん、ありがとう。 

      帰りは、八王子方面へ下りて,日の出インターから高速に。行き帰りの車中でブナにした話。人間が夢を見るのは,寝ている間に目がめだま親父のように飛び出して,あっちこっちへ行くから見るんだよという話。家の近くの妙見山トンネルは工事がうまく行かなかったので,生け贄の子どもが必要になり,村の会議でブナが選ばれたけど,父ちゃんがイノシシを捕まえて,毛を剃って,服を着せて、人間の子どもに見立てて生け贄に埋めたから、ブナが助かった。それで、今でもトンネルの真ん中の水たまりには赤い血が滲んでいるという話。このふたつは、半分信じているようである。 

      西さんの恋の話なども聞きながら,少し込み気味の高速をひたすら走り,22時過ぎに家にたどり着いた。

      2013年7月5日金曜日

      音楽考古学者、そして、二月堂の五体投地 (26/03/2010)


      3月4日
      みんぱくにアルセニオ・ニコラスさんを迎えに行く。アルセニオさんは、フィリピン人の音楽考古学者。みんぱくに研究員で来日中。東南アジアの海域に沈んだガムランの研究をしているという。1970年代にジャワ島のソロにガムラン留学をしたことがあり,インドネシア語がペラペラである。関西でのガムラン活動も見てみたいと言うことで,たんぽぽの家でやっている僕のワークショップを見学しに行くことに。本間直樹さんもいるので、車中は英語とインドネシア語のチャンプール。 

      たんぽぽの家では,月に2回木曜日の夜に,音楽とダンスのワークショップをしている。本間さんと行くようになって,もうすぐで4年。ここでは、ジャワの古典舞踊をするのではなく、ジャワ舞踊からヒントを得たからだの動かし方にいろいろチャレンジしている。僕自身、ここでのダンスワークからたくさんのことを学んだ。自由にやらせてもらって,ほんとうにありがたい。その中でも,昨年から取り組んでいるのが,振り子奏法をはじめとするダンスと演奏が一体化した「さんずい」プロジェクト。椅子や床の上で,振り子になって揺れる。揺れた先にガムラン楽器があり、当たったり当たらなかったりする。音が鳴ったり,鳴らなかったりする。鳴らないことも受け入れて,音とともにただ揺れるだけという境地に達してくると、かなりいい音が鳴るし,いい動きになる。が、これがなかなか難しい。たんぽぽの家のみなさんは、だいぶ熟達してきている。こんな風変わりなガムランやっているチームはなかなか無いだろうなあ。 

      そんな風変わりな様子を、アルセニオさんは興味深そうな顔でじっと見つめている。鼓膜を悪くして、音楽をあきらめた彼が,高野山の根本大塔の法輪の先に吊るされた鐘が風に揺られてささやくような、ガムランの音に耳をすましている。この音だったら、耳に悪くないそうだ。この日,アルセニオさんが奈良に来た目的はもうひとつ、東大寺二月堂のお水取り。ワークショップを終えて,たんぽぽの岡部さんも一緒に4人で二月堂へ向かった。しかし、京都へ帰る電車がギリギリになったので,アルセニオさんは帰ることになった。申し訳ないと謝るが,いいワークショップを見れたと全然気にしていない感じ。気遣いの人だなあ。笑顔に救われる。再会を約束して,JR奈良駅でさようなら。 

      二月堂では、3月になるとお水取りがある。1200年以上,1年も欠かさずに毎年続けられている。2週間に渡って,お松明や声明が続けられ、3月12日の深夜にお水取りが行われる。僕は,20年前に中川真さんにすすめられて,以後何度か見に来たことがある。その時に、印象に残ったのが,深夜にお堂の中で行われる五体投地だった。この日も、久々にぜひ見てみたいと思っていた。 

      二月堂の裏辺りに着いたのが,11時頃だったか。小雨の降る静かな境内を歩き,階段を上がって二月堂へ。声明が低く、響いている。確か,お堂の周りの扉を開けると小さな部屋があって,そこからのぞき見られるはずだった。20年前は,北側の局から見た記憶がある。3人で入り口を探しながらグルリと回っていくと、西側の見晴らしのいい舞台へ出た。雨の夜景に思わず息をのんだ。木の扉がわずかに開いていた。どうやら中にも先客がいるらしい。そぉっと中へ入った。10名ほどの先客がいる。目が慣れるのを待ち,ゆっくり正座のまま前ににじり寄って,堂内とを隔てている格子に近づいた。声明が鳴り響き,中央に掛けられた白い幕に、歩き回る僧侶の影が映っている。ワヤンのようだ。やがて、ひとりの僧侶が目の前にやってきた。 

      ターンッ! 

      と音が鳴り響いた。床の上に置かれた長い木の上に勢いよく倒れ込んでいるのだ。久しぶりに聞いた音だが、これは、 


      振り子奏法の音 
      「さんずい」の中の倒れ込み奏法の音 
      坂道プロジェクトの坂での寝返り 
      ジャワ舞踊の波の動き 

      ともつながっている音であり、動きだった。 

      和太鼓奏者で黒拍子の安田典幸さんは、「太鼓は、ほんとはバチを投げつけた方がどれだけいい音がするか。手は,邪魔なんですよ。」と言っていた。 
      それをヒントに生まれた倒れ込み奏法。自分を消し去って,バチとともに鍵盤に落下する奏法。楽器の持つ最大限の音を引き出す。 
      そして、バチ振り子奏法。バチをやじろべえのように指の上にのせて,自分の力を消して,バチの揺れだけで音を鳴らす奏法。こちらは、最小限の力で、バチと鍵盤が出会って響きあい、小さないい音がなる。 

      動きでいえば,こんな感じ。 
      坂道に立てば,重力を感じる。からだを楽にしていれば、からだが滑り出して,階段だって水のように落ちていける。 
      ジャワ舞踊の時に,自分を小さくしていって,操られたような意識になり、動いていく感じ。

      そんなことともつながっている気がする。

        寒風に吹かれた顔 (10/03/2010)



        朝から大雪。窓に雪がへばりついている。ブナは、ソリを持って外へ飛び出した。僕は車を見に。とても下の国道までは出られない。仕方が無いチェーンを巻こう。一汗かいたが、手が凍りそう。家へ戻ってしばらくすると,ブナが戻ってきた。 

        寒風に吹かれた子どもの顔って、なんていいんだろう。ちょっとカサカサになって,ほっぺが赤くなって,目が輝いて。 

        ブナは、週に1、2回、豊中のじいさんとばあさんの家へ行く。すると、後で、ばあさんからメールが届いたりする。例えばこんな感じ。 

        ・・・ ・・・ 

        bunaから「日曜日にオーシャンズ見たいのでよろしく。」と留守電に入っていた。その日曜日は、双子ちゃんとお兄ちゃん、ユッキーの4人でボール遊びに熱中していてbunaに声がかかり、すぐに仲間に入れてもらった。上から時々見ていると結構熱中している。ボール遊びのネットの代わりに子どもたちのジャンバーが地面に並べられている。「おとこのこやな」と新達の時代を思い出した。熱中しているし、映画の結論は本人次第。12時前にほっぺを真っ赤にしてジャンバーのフードを頭にのせて帰ってきた。「あのな、お昼からみんな遊びにくるねん」「こどもべや、bunaのへやでおもちゃ出して遊ぶー」Baba「あら、オーシャンズは」buna「ああ、忘れてた今度行く」と一声。 

        ・・・ ・・・ 

        寒風に吹かれた上に,友達と目一杯遊んで帰ってきた顔はなおさらだろう。自分の世界を持ちはじめているんだなあ。子どもの頃,冬も外で半ズボンで遊んだ。縄跳びに失敗したら,痛かったこと。タコ上げの糸が絡まって,ほどいてもほどいても絡まって,段々暗くなっていったこと。観察池の氷が割れてはまったこと。横っ腹が痛くなってもがんばって走ったマラソンのこと。 

        今晩は,みぞれ。時折,遠くで花火がなるように、屋根の雪が落ちていきます。

        飛び回るささやき (23/02/2010)

        2月21日 
        地下鉄御堂筋線動物園前で下りて地上へ,路上に露天が並ぶ。僕はダッシュをしながら「南海の駅あっち?」と聞くと、おっちゃんが笑って「あっちや!」と答えてくれる。南海新今宮駅の3階まで駆け上がると,インドネシア研究家のAさん、染織家のHさんがホームに。バリガムランギータクンチャナ代表のKさんは、改札の外で待っていてくれた。危ない危ない,遅刻寸前,なんとか間に合った。格安チケットを購入してくれていた江美さんにどやされるところだった。 

        橋本で乗り換え,単線の線路が山をくねくねと登っていく。極楽橋からはケーブルカー。高野山駅は標高900メートル近い。でも、そんなに寒くなかった。バスで蓮花谷下車。今晩お世話になる宿坊成福院に到着。インドの笛バーンスリー奏者のHさんが昨日から泊まり込んでいて,迎えてくれる。部屋は,別館の豪華な部屋。宿坊とは言うものの,豪華な旅館のよう。去年に引き続き,Gamelan Aidの高野山会議。厳冬の高野山に泊まり込んで,霊性を吸い込んで,時間を気にせず,飲みながらとことん話し合おうという趣旨。あるいは、ということを口実にした宴会。 

        早速風呂に入って,からだをほぐそうということに。大阪大学のSさんとGamelan Aidで卒論を書いたAさんもやってきた。まずは、Kさんがやっている足指ほぐし。難しかったが,足の指を全部組み合わせて、あぐらをかくと、悟りが開けそうだった。続いて,僕がやっている背骨の活性化体操。寝転んで背中をそらせて、背骨の一番下を床につけたところから。1センチずつくらいつくところを上にずらしていく。つくところはなるべく1点になるように。首の付け根までゆっくりあげていく。一気に5センチくらい動いてしまったら,行きつ戻りつしながら進めていく。今度は,首からお尻へ。何度か往復させる。なかなかもどかしいが、とても気持ちがいい。 

        なんてことをしてると、あっという間に,ご飯の時間。精進料理だが,とても豪勢。名物は、高野豆腐とごま豆腐。気のせいか,去年の方がおいしかったような・・・。それでも、お腹いっぱい。部屋へ戻って、いよいよ宴会議開始。超多忙のNさんが最後にやってきた。今年のGamelan Aidの予定を中心に話はあっちへ行ったり,こっちへ行ったり。ガムランを輪に緩やかに結びついた人たちが共有できることもなんとなく見えてきた。ちびりちびり飲みながら2時近くまで続いた宴会議の間中,諏訪さんは速記者みたいにキーボードを叩き続けた。馬鹿話もいっぱい入っているんだろうな。どこかで公開されるんだろうか。 

        2月22日 
        朝の勤行はスルー。自宅にいると6時過ぎ、ガバッと起きたブナに「パパ、ご飯作ってや!!」と、叩き起こされるので・・・。冷えきった宿坊で,分厚くて重たい布団で寝るのは本当に心地いい。8時からの朝食をいただく。月曜日なので,忙しい社会人たちが帰っていく。残ったのは,ヒマ人のビンボーゲージツ関係、Hさん、Kさん、Hさんと僕。ゆっくり散歩に出かける。去年は奥の院へ行ったので,今年は金剛峰寺の方へ。ゆるんだ土の道につく足跡を楽しみながら進んでいく。空気が澄んでいく。 

        視界が開けると,朱色の根本大塔が目の前に。

        シュリン、シュルリン、シュルシュル 

        と、軽やかなささやきが聞こえる。なんだろう。上を見上げると、屋根の4角に鐘のようなものがぶら下がっている。 



        さらに上空を見上げると、青空に、雲がすごい勢いで流れている。塔のてっぺんのアンテナのような部分、相輪にも小さな鐘がたくさんぶら下がっている。



        はるか上空なのに,耳元でささやいているように聞こえる。塔の正面に回って、手を屋根の形に沿わせてみる。相輪の上まで伸ばして,ついでに伸びをする。背骨が伸びて,塔とすこし一体化できる。 

        シュリン、シュルリン、ギイ 


        時折,我が家の小桜インコのパリノが鳴くように,ギイと、つっかえる。これは、どこかで聞いた音ではないか。ああ、そうか。「サンズイ」の音だ。僕が進めているダンスと音楽が一体化するプロジェクト「サンズイ」の中で聞こえた音だ。風に揺らぎ、動き,音が生まれる。そこにあることを、感じる。すべてを受け入れる。ただそれだけ。 

        前夜の宴会議中、Kさんが突然、「誰かおるで、ここに。」と、自分の脇を指差した。小さな話し声が聞こえると。耳を澄ますと,確かに妙な音がいろいろ聞こえた。そして、時折,寸断するような音も。「魔法瓶がなってるんちゃうん?」ってことでその場は片付いた。 

        ああ、この音だったのか。地図で確認すると,ちょうど1キロくらい離れているけど、きっとこの音だろう。広い境内には,僕ら4人しかいない。時折,低く響く読経の声、笛の音も聞こえる。標高900メートルの霊場高野山,きっと相輪の鐘,読経の響きのほかにも、いろんなささやきが風に乗って飛び回っていたのだろう。 



        光の川 (18/02/2010)

        2月15日(月曜日)18時過ぎに船場アートカフェ到着。今日は,船場マンスリーカフェの僕の担当日。大阪ピクニック夜編。去年,春と秋に大阪ピクニック01と02を行った。いずれも3日間シリーズで、1日目作戦会議、2日目ピクニック、3日目映像上映という流れだった。今回は,1日だけのショートバージョン。 

        19時過ぎには,参加者が全員集合。大阪市大商学部のHさん、文学部のSさん、神戸大学大学院のMさんとNさん、写真家のTさん、ボーカリストのTさん、ボイストレーナーのKさん、歌が得意なNさん、そして映像担当の本間直樹さんと船場アートカフェの高岡伸一さん。まずは、それぞれ自己紹介。ピクニックに行くんだから,仲良くならないと。それから、I-Picnicの映像上映。「STAMPOK PARK」「BY THE DANUBE」。ハンガリーの子どもとの即興とドナウ河畔での佐久間新+野村誠+藪久美子の即興。映像は、もちろん野村幸弘。 

        それから、みんなで動いてみることに。僕はこういうワークショップをする時は,なるべく事前に決めないようにしている。その場とメンバーの雰囲気を見ながら,なるべく即興的にワークショップを進めていく。スタジオの壁に、縦にスリットの入ったカーテンがグルリとかかっている。結構繊細な動きをしそうだったので,それに触れてみることから始めた。そっと触れてみたり,戯れてみたり。みんな入り込んでやっている。まだまだやりたそうだったけど,スタジオの外へ。今日は,ショートバージョンだからある程度さくさくと行こう。 



        これは、前にも少しやったことがあるんだけど。船場アートカフェの地下の踊り場の気持ち悪さを体験。そこだけ天井が異様に低くなっているので,かなり圧迫感がある。音や光の感じも変わってくる。背の高さでもかなり違うみたい。そして、ビルの入り口へ。自動ドアがある。中からは反応するが、外からは開かないタイプ。ひとりずつ近づいていって,センサーが感知しないギリギリで止まる。順番に人数を増やしていって,センサーの届く範囲をみんなのからだで描く試み。途中で外へ出て見てみたが,かなりおかしい。見えないものを感じて,からだであらわすのも、ダンスの大切なこと。 

        外の世界へ。路地の角を曲がると,御堂筋から風が吹いてくる。店先のシャッターで風宿り。大通りからは,車の音が、信号が変わるたびに通り雨のように聞こえてくる。夜の御堂筋を歩く。Tさんが、ヘッドライトに流されると言って下流に流されていく。光の川。横断歩道をわたって,西側へ。「夜のビル街って、走りたくならない?」って、僕が聞くと,Kさんがうなずくので,ふたりでダッシュ。みんなもついてくる。止まった横には,壁一面がライトアップされた不思議なビル。のっぺりとした壁面に,光によって微妙な陰影が生まれている。かなり美しい。柵が無かったら,入り口前で踊るんだけどなあ・・・。柵のところで,声を壁に放り投げたり,寝転がって壁を見上げてみたり。大きなビルの前では,ビルと一体化したついでに伸びをしたり。 




        御堂筋は、西端1車線、小さな中州,4車線,小さな中州,東端1車線、全部6車線、幅40メートル、長さ4キロの大阪のメインストリート。南向きの一方通行。中央大通りの北側は,オフィス街。みんなで中州の北端に立って、タイタニックごっこ。ヘッドライトの光の波を味わう。股のぞきをすると,光が全然違って見える。振り向くと,何百個の赤信号が一斉に青に変わる。一方通行なので,前には信号の光が見えない。中州には、まっすぐ伸びるイチョウ、身をくねらせるイチョウ。上には車が,下には地下鉄が走っている。イチョウはどんな音を聞いているのか? 

        巨大な建設中のビル前,地下を塞いだ鉄板の上で,足を踏みしめたり,音を壁に放り投げたり。40メートル向こうのビルにも音が当たって返ってくる。おしくらまんじゅうしたり,走り回ったり,かくれんぼしながら,移動していく。みんな、だいぶからだが軽くなったみたい。まだまだ続けたかったけど,今日はショートバージョン。「横断歩道をわたったら、いつもの世界に戻ったことにしよう。」と言って,横断歩道を渡るんだけど,簡単に元には戻れない。神戸大学のNさんといつまでも足音で遊び続ける。 


        船場アートカフェに戻って,質問とアンケートタイム。Mさんが、「気持ちのいいところへ行って、感じるところまではできる。そこから後もう一歩、踊るっていうところに・・・。」そう、そこがね、難しいと感じるかもしれない。でも、感じることさえ出来たら,僕は難しくないと思う。こころが揺らぎだせば,それはもうダンスなのですよ。Mさん、また一緒にピクニックしましょう。今年は,神戸でもピクニックをする予定です。

        宙に浮かぶ白と床に絡まる黒っぽいもの (11/02/2010)

        ブナが微熱で保育所を休む。4月からの小学校がそれなりにプレッシャーになっていて,朝早く起きたりなにかと疲れがたまっているのだろう。まあ、暖かい雨も降っているし,僕も時間があるので,今日はのんびり家で過ごそう。窓から雨を覗くと,向かいの山に(675メートル)にガスが下りて来ている。雨降りには、枯れ葉や伐採した枝を燃やす家が多い。煙の青が、ガスの乳白色に混じっていく。 

        「梅の匂いがする。」とブナ。 
        「エー,まだやろ。」と僕。 

        んっ!裏庭の端を見ると、なんと梅がほころんでいる。ブナが得意そうな顔をしている。この間は、ロウバイの匂いに、ほぼ同時にふたりで気づいたのだった。昼ご飯は豚汁。歩いて1分の藤細工の工房へパートに出ているイウィンさんが帰って来たので、3人で昼食。 

        夕方から、僕は京都のJEUGIAカルチャーでジャワ舞踊教室。いつもよりちょっと早めに出て,2件の展覧会へ出かけた。1件目は,中村伸さんが教えてくれた展覧会。 

        (のびるさんのをコピーします) 

        ・・・ ・・・ 

        「而上其心(にしょうごしん) 石田智子展」 
        2月5日(金)~2月21日(日)まで、 
        京都の「ギャラリー素形(すがた)」で開かれています。 
        福島のお寺の住職と結婚した現代美術の作家で、 
        檀家の方などからいただく品々の包装紙を捨てるに忍びなく思い、 
        それらを素材にした造形の数々を手がけています。 
        ファイバーアートというのでしょうか、 
        紙を細かく切って縒ったものだけを使って宇宙をつくる。 
        前に近江八幡の旧家で展示したものを見たのですが、 
        一瞬で重力がなくなったような気がしました。 
        ご主人は、わりと売れている作家なのだそうです。 
        ●ギャラリー素形 中京区室町二条下ル蛸薬師町271-1 
         www.su-ga-ta.jp 月曜定休 
         tel 075-253-0112 

        ・・・ ・・・ 

        室町通に面してガラス張りのきれいなお店兼ギャラリーがあった。奥まったギャラリーに入っていくと,鳥の巣がたくさん集まったように、短い直線が集まって出来た曲線がひとつの固まりになって宙に浮いていた。近寄っていくと,紙で出来た白いこよりだった。5万本あるという。 

        室町通を下って,三条通りへ出て川端通を南へ下った。四条をすぎたところで車を停めて,2件目のギャラリーへ向かった。久々に電話したTさんが教えてくれた展覧会。 

        高見晴恵ーインスタレーションー 
        2月6日ー2月14日 
        楽空間 祇をん小西 東山区祇園花見小路四条下ル西側 
        www.gionkonishi.com 
        tel 075-561-1213 

        いわゆる祇園のど真ん中。町家のギャラリー。入っていくと賑やかな京都弁の作家が、僕の前に入った芸大の教授風の男性を案内していた。僕も一緒に入っていった。通りに面した薄暗い日本間に座る。ふすまを挟んで隣と、その奥に作品がある。雨降りの6時は薄暗いので、電気の消された室内はかなり暗い。目が慣れてくると,革の切れ端のような黒っぽい細くて短い曲線が、絡まった干し草のように床に敷き詰められているのが見えてくる。しばらくいると、白いふすま、障子に映る影,どこからか漏れてくる明かりが作り出す微妙な陰影の変化が分かるようになってくる。そこへ、細かな格子の影が大きさを変えながら部屋の中を移動していく。外を通る車のヘッドライト。 

        見終えてお茶をいただいた。紺とグレーを張り合わせた厚手の生地を、はさみで1本1本なるべく細くなるように、1年かけて切っていったそうだ。日光やヘッドライト,見る人の感覚と会話する作品。寡黙だけど,雄弁な作品だった。高見さんの京都弁が心地よかった。 

        美術を見ると勇気づけられる。揺れるだけだって,立っているだけだって,ダンスになるはずだって。

        近くて遠い旅 (26/01/2010)

        この間の日曜日は,船場アートカフェで高岡伸一さんと、大阪ピクニックに関する打ち合わせ。去年した船場アートカフェ主催の二つのピクニックに関する印刷物を作成することに。また、2月15日にも船場アートカフェのマンスリーワークショップで、大阪ピクニック夜編を行うのでその件も少し。印刷物がどんな形式になるかは、これからみんなで考える。パンフレットになるかレポートになるかマニュアルになるかイラスト地図になるか。 

        まずは,この日記でも途中になっていた大阪ピクニック02 坂編 天王寺~帝塚山 の振り返りをしておこう。これはあくまでも僕の視点。参加したそれぞれが自分の体験をしている。そういったことが反映されるものを作りたいなあ。(写真は、西純一さん) 

        10月12日 
        13時,JR天王寺駅1階コンコース 551蓬莱前に集合。僕は、車を駐車場に入れるのに手間取って5分遅刻してしまった。 
        すでに集まってくれていたのは、建築の高岡伸一さん、エイブルアートの岡部太郎さん、映像担当の本間直樹さん、街歩きのOさん、美術+パフォーマーの池上純子さん、美術の西純一さんとNAOさん、音の専門家のかつふじたまこさん、寝てても方角の分かるHさん、そのお友達のYさん、写真家のTさん、染色会社に勤めるFさん、そしてイウィンさんとブナ。それから、遅刻して途中で合流した小島剛(音の専門家)を入れると総勢15名。 

        まずは、JR、近鉄百貨店、アポロビルを結ぶ歩道橋へ。歩道橋の上の南東側で、50代から70代のおじさんたち6、7人が見物にふけっているのを眺める。おじさんたちが眺めているのは、巨大な工事現場。異様に背の高いクレーンが何台も動いていて、地下がむき出しになっている。チンチン電車(阪堺電軌)に沿って立ち並んでいた味のあるアーケードが取り壊されていた。高村薫の「神の火」という小説の舞台にもなっており、留学中ジャワで何度も読み返していた僕にとっては、猥雑だけれどもほんのりと暖かいイメージのある場所だった。 

        アポロビルの前を西へ向かい、大阪市大病院を左へ曲がる。先ほどの味のあるアーケードの裏手に当たる。巨大なマンション群が建っている。Oさんいわく「とても紛らわしいイタリア語風の名前」がすべてのマンションにつけられている。この辺りは、ゆっくりと西へ傾斜している。上町台地の西端だ。今回のピクニックは、この台地の西端を天王寺から帝塚山へかけて南下するのが主なルートだ。阿倍野区と西成区の境界にもなっている。崖の上が東、下が西。天王寺から帝塚山へと南下していく。土地の変容とともに、風景、建物、人、植物、動物、音、におい、あらゆるものが変化していく。 

        阿倍野マルシェを越えたところで、時計台が現れる。塀があり、崖になっている。階段の下は、飛田新地だ。明治時代にできた赤線地帯だ。階段をおり、飛田新地を南下する。時代が逆行する感じ。新地の南端に「鯛よし百番」がある。元遊郭が今は料理屋さんになっている。15年以上前に、大宴会をしたことがある。新地が途切れたところに、短いトンネルがある。西さんの提案で、上の道に連なる階段に並んで恒例の記念撮影。この辺りは、南北に狭い筋が走り、東側の崖の所々に階段がある。崖際に立つアパートには、崖の下と上の両方に入り口があったりする。階段を上がると、市営南霊園。風が霊園を横切っているのを,みんなでバンザイして味わった。 

        階段を再び下りて行くと,玄関が共同の古いアパートが斜面に建っている。高岡さんの説明を聞きながら,タイルや装飾を観察。太ったツヤツヤの猫がたくさんいる。アパートの横に小さな公園があったので一休み。木陰が気持ちいい。鳩が間隔を空けてたたずんでいる。小島さんの提案で,全員1分間音に集中する。近い音,遠い音,大きな音,小さな音。中空に響く高速道路のドローン,鳩の声,切り裂くような鳥の声,自転車のブレーキ,薄暗い窓の向こうのAMラジオに、耳を澄ます。感覚が開いてくるのが分かる。僕は,西さんに聞いてみた。「このアパートと西さんはどっちが年いってますか?」しばらく考えた西さんは,「アパートかな。小さな頃にこんな感じのアパートを見たことがあるし・・・。」 

        アパートの側面はつぎはぎだらけだった。木の窓枠,サッシ,クーラーの室外機,洗濯干し用の支え,何種類ものガラス・・・。自分と同じくらいの年齢のものを探してみようと提案した。答え合わせは、高岡さんがしてくる。子供の頃の記憶の引き出しを呼び覚まして,アパートの質感をじっくりと味わった。木の窓の横滑りさせる時のひっかかり。薄く粘りのないガラスの小刻みに震える音。クーラー室外機のホースが壁を突き抜ける周りに塞ぐ粘土のようなもののにおい。牛乳瓶に表面に残された傷の数々。 

        再び崖の上に上がって,大谷高校の裏を南下する。ガードレールの音楽,猫じゃらしのダンス。聖天山公園に到着。こんもりとした古墳の上にアメリカ軍も切り倒すことできなかったクスノキがある。Oさんは、本当に故事来歴から地理,地質学まで街歩きに関することは何でも知っているのでうれしい。クスノキの根っこの周りで,自分のベッド探し遊びをやった。ブナが一番上手だった。根っこのベッド。「日本人の観光客なん?」子供たちがしゃべりかけてくる。コンクリートのベンチの裏に敷かれた座布団に猫が何匹も寝ている。 

        正圓寺の手前のコンクリートの塀に、雨と風がアラビア文字を作ってる。アッサラームアライクム。境内の桜の老木をそっと揺すってみる。門前にある柄杓で水をすくって,流してみる。水は微妙な線を描き階段の方へ伸びていき、川になる。みんなで川になってみる。足首を柔らかくして,体重の移動を感じて下へ下へ引っ張られるのを感じる。ポケットから携帯とカメラと財布をそっと出して,僕は階段を転がった。 

        松虫通りを松虫塚へ向かってずんずんと歩いた。傾きかけた日差しが作る影も一緒にずんずん歩いた。影と双子になった。影に近づいてみたり、離れてみたり。その内,影と影が接近すると影同士がスイッと近づくのを発見した。電柱の影にすっと忍び込んだり,ぬわっと出てきたり。からだの質感が変わるのが、おもしろい。やがて、松虫塚到着。Oさんによると、塚というのは、街歩きで外せないポイントだという。 

        阪堺電軌の踏切を越え、松虫交差点の手前を南へ曲がり,熊野街道へ入る。雰囲気のある通り。入ってすぐ右手の家に何人かの人が反応している。僕は,すこし時間を気にしながら歩いていたので,見落としたポイント。みんなで歩いているといろんな発見があって楽しい。少し行くと安倍晴明神社。小島さんおすすめのものすごく狭い路地を西へ入る。ひとりずつ肝試しのように入っていく。踏切を越えて,住宅街を進む。不意に坂道があらわれた。池上さんが家の近くの田んぼの土で作った団子がたくさん入った風呂敷を広げた。祈りとともに,団子が転がりはじめた。コロコロコロコロコロコロ。 

        徂親坂を下り,さくら坂を上がる。日が傾いてきた。ヘルメット,多肉植物のインスタレーション。ゴールは無いんだけど,ゴールに近づいている感じ。一緒に過ごした時間が層になって生まれる何か。短くて近いけど遠い旅の終わり。阿倍野神社東門を抜けて,阪堺電軌天神ノ森駅到着。チンチン電車に揺られて,南霞町駅で解散になった。

        湯気ダンス、影ダンス (24/01/2010)

        1月21日 
        10時,近鉄喜志駅。ISIのヘルサパンディさんたちと待ち合わせ。だが、来ない。電車を乗り過ごしたそう。リハがあるので,先に大阪芸大へ。ピアノの加納さん、ガムランの長田さん,バレエの松島さんと最終リハ。段々いい感じになってきた。ヘルサパンディさんたちもなんとか自力で到着。 

        13時20分、3号ホールでコンサート開始。出番は,14時30分。ピアノとボナンがテーマの旋律で呼び掛け合う部分から始まる。ピアノがひとりで走り始めると、バレエダンサーが登場。さらにピアノが挑発的に鳴り響くと,僕が扮する鬼がゆっくりゆっくりはらりはらりとあらわれる。ビシビシと雷鳴,太鼓とピアノが勢いよく走り始め、追いかけ合う。バレエダンサーと鬼も走り回り、追いかけ合う。しずかなゆっくりとした時間が流れる始まると、ピアノもガムランも,バレエも鬼も,すべてが混じり合いそうになる。と、鐘が打ち鳴らされる,混じり合いは巻き戻され,それぞれの方向へ伸び始める。音になって,気持ちよく,踊れた。ISIの先生たちも楽しんでくれたようだ。七ツ矢先生、退官おめでとうございます。すぐに着替えて,アートセントーへ。 

        16時,天神橋筋7丁目近くの元銭湯のアートセントーを発見。みたところ銭湯そのもの。一緒にパフォーマンスをする小島剛さんがすでにラップトップとスピーカーをセッティングしている。軽く打ち合わせ。僕は,銭湯のあちこちを探検。あこがれの番台にも座ってみる。古い木製で、馬蹄形の手すりの内側には引き出しがあって,いろいろ入っている。そろばんとか,押しピンとか、もちろんシャンプーや石けんも。番台前の男湯と女湯の境界は、なんだか見えないバリアがあるようだ。近づいていくと,からだにビリビリと電波が走る。銭湯の磁場。もちろん、今は女湯も入りたい放題。入ってしまえば,おんなじ構造なので,ドキドキ感は無い。小さなタイル,転がる洗面器,脱衣場の床の竹製ござ、天井のファン,映画館の張り紙、非常ベル、遊べるものがたくさん。 

        17時すぎ、パフォーマンス開始、観客は30名ほど。観客というか,立会人というか、参加者。みんなで銭湯を探索するゆるい場面から始める。途中で,参加者の集中が途切れ,バラバラな感じになってきたので,ちょっとがんばってみんなを引きつける。参加者にも絡んでいくと,思いのほか,ノリノリである。服を脱ぎだす人や,僕とくんずほぐれつで脱衣場でダンスする人があらわれる。ツツミさんといったか、この方はすごかった。終了後,僕の中には踊りたい衝動が隠れているのかもしれないと告白してくれた。即興パフォーマンスは45分くらい続いた。その後,フォーラム。18時30分に抜け出す。この日は、もう一本、奈良でワークショップ。 

        19時30分、たんぽぽの家到着。月2回の定期ワークショップ。まずは,台湾のウーロン茶とおいしいラスクでなごみながらおしゃべり。影と水を使って,からだのワークショップ。影と影とが近くづくと,影どうしが引っ付くのと,水面に指を近づけていくと最後に水が吸い付いてくるのを,楽しみながらからだを動かしてみる。後半は,本間直樹さんのガムランワークショップ。僕は,床暖房の上でうつらうつら。22時30分終了。またまた、DVD入りのかばんの忘れ物をしたので,アートセントーへ寄って,中川真さんに会って,阪急淡路駅まで送ってから帰宅。ふ~、長い一日。 

        1月22日 
        17時30分、阪大のオレンジショップに到着。西村ユミさんが掃除機をかけてくれている。DVDのセッティング,ご飯のセッティングなどなど。18時過ぎから、I-Picnicの映像「Bukit Pnjong(ポンジョンの丘)」を流す。参加者が集まってくる。18時30分,ワークショップ開始、タイトルは「湯気ダンス」。まずは、自己紹介。阪大の工学部の学生がふたり,脳神経の専門家,理学療法士,ダンス大好きの大学職員,人類学者,看護学の専門家、臨床哲学者、看護学と現象学の専門家などなど。ジャワ舞踊の話から始める。ジャワ舞踊のコンセプトは、Banyu Mili(水が流れる)。僕のワークショップは、進行も即興。まずはごろんと寝転がって、水のようにリラックスしてみる。理学療法士の玉地さんがいたので,寝転がっている人を指1本で、寝返りするように1回転させるの見せてもらう。僕も、自分のワークショップでもやることがあるが、うまくリラックスした人だと,人差し指やかかとやこめかみなどをつんつんとつついていくと,からだ全体が動き始め,1回転するのだ。 

        そうこうしていると、炊飯器から湯気が出始めた。湯気を愛でる。今日の主役は湯気なのだ。湯気と煙の違い,僕がなぜ湯気に引かれるか、などを話していると,ご飯が炊けた。ふたを開ける儀式,ほあ~と湯気が立ち上る。そして、混ぜる、ますます湯気が出る。しばし、湯気を触ったり,湯気と踊ったり。お皿にとって,動いたり,ご飯を指につけてみたり。勝手に動くんじゃなくて,湯気に踊ってもらうのがみそ。みんな一心不乱に湯気と遊んでいる。西村さんさんが持ってきてくれたお惣菜や海苔でご飯を食べる。うまい!湯気を見るために,照明をあてていたんだけど,きれいな影が出来ていたので,そこから影遊びに。みんな完全に踊るモードに入っている。湯気ダンス、そして影ダンス。語って、踊って,食べて、を3回戦まで行った。 

        最後に,I-PicnicのDVDを見た。「STAMPOK PARK」、「BY THE DANUBE」、「Impro-Garden」。そこにいる人,もの,環境,時間を感じながらの即興。上映後も,参加してくれたメンバーの話はなかなか尽きなかった。4時間近いワークショップになった。

        Q2の忘れ物を取りにY3へ (20/01/2010)

        1月20日 
        朝,霜が下りた田んぼから水蒸気が上がっていた。すごく暖かいと思ったが,0度。でも、日差しが強かったので,毛布と布団を干した。昼からは,日曜日のアクト・コウベの集まりのときに忘れてきたDVDの入ったをかばん取りに神戸へ。うー、遠いが仕方が無い。あさってのオレンジショップのワークショップで流すつもりのDVDが入っている。I-PicnicのDVD。1時間半かけて,かばんを預かってくれている下田さんがいるY3に到着。下田さんは、CAP(芸術と計画会議)のオフィスにいた。かばんも無事あった。下田さんがCAPのブログに、1月17日のことを書いていている。写真も見られるのでどうぞ。 

        http://www.cap-kobe.com/club_q2/2010/01/19144216.html 

        みんなカンロクが出てきたなあ。鈴木昭男さんにも会えた。 
        この日,一緒に踊ったYangjahさんも、ブログに書いていた。 

        http://emptybody.exblog.jp/13523285/ 

        彼女とは、また一緒に踊りたいなあ。とても気持ちのいい時間だった。僕らの後に歌った下田さんのライブもとてもよかった。花の名前だけが歌詞になった歌とかとか。オフィスで下田さんのCDを買って,サインしてもらった。その後、Y3やQ2で、僕がやりたいことをいろいろやってみようか、という話になった。I-Picnicの映像上映かとか,振り子奏法のワークショップとか、ピクニック神戸編とか、いろいろ。とりあえず、企画書を書いてみようと言うことになった。今年は,神戸でもいろいろやってみようかな。 

        明日は、大阪芸大で七ツ矢さんの作品を踊って,天神橋筋6丁目のアートセントーで小島剛さんとパフォーマンスをして、夜は奈良のたんぽぽの家でワークショップ。なぜか、予定が重なって忙しい一日になりそうだ。