2013年10月11日金曜日

晴美+佐久間ダンス@現代思想 (29/09/2010)

「現代思想」青土社10月号が発行されたよう。臨床哲学が特集されています。本間直樹さんと玉地雅浩さんが、「身体は見えるものである 理学療法からダンスへ」という文章を共同執筆している。これに際して,本間さんからインタビューを受けた。 
http://www.seidosha.co.jp/index.php?%CE%D7%BE%B2%B8%BD%BE%DD%B3%D8 

7月に、みんぱくで「侵蝕するガムラン」というコンサートをした。その中で,「ドン・テ・シペシ」というタイトルで、マルガサリ+Yangjah+たんぽぽの家メンバーで、即興パフォーマンスをした。それに向けて、たんぽぽの家で何度か練習を行った様子を撮影した映像を見ながらのインタビュー。 

たんぽぽに家きっての存在感あるダンスをする晴美さんと、ひさびさにダンスをした。向かい合ってしばらくやり取りがあって,ダンスがはじまる感じだ。どうして、ダンスがはじまるのか。その時の様子を、からだでじっくりと反芻しながら映像を見て,言葉にしてみた。 

本間直樹さんが、うまく文章にして書いている。 

以下引用 

・・・ ・・・ 

この記録を観ながら、Bは筆者に対して次のように語る。「僕とBさんとは、これまでも何度か一緒に舞台に立ったこともあり、二人のあいだに、表現することに向かうための基本的な信頼関係が成立している。(映像を観て思い出しながら)このとき、僕はAの振舞いを真似て発展させている。しかし、完全な真似ではなく、わざとちょっと変えてやる。ほんの数回やるとAさんが喜ぶ。自分の動きに近いことがパフォーマンスになっている、自分の動きが僕によって採用されている、ダンスにされているのをどうも喜んでいるようだ。その、ダンスが成立した感じになると、今度は大胆に動き出す。それだってダンスになるよ、と僕も動く。こういうのは普段の捌け口を求めるような、感情の吐き出しとは違う。遊びになり、ダンス化している。」 
 事前にパフォーマンスに参加することに同意がなされていることからも明らかであるが、AもBの両者とも、自分の身体が他者によって見られることを承認している。ここで見られるような身体の表現は、根源的に対他的な営みであり、動く自分の身体が、他者からの承認(あるいは否認)をともなう〈見えるもの〉であることを追求している。しかも両者は、互いに見ることと見られること交換しつつ、模倣による閉じた循環に陥ることなく、開かれた〈対〉を形成している。この開かれた〈対〉によって、どちらもが最初は予測していなかったような大きな振りやポーズが生成されているのである。そのことが両者によって喜びとして感じられていることは、このような生成の場に立ち会った者にとっても直接に感じとられる。その意味でも、二人だけの世界ではなく、開かれた〈対〉が演じられているのである。 

・・・ ・・・ 

晴美さん、目力あるね、最後の立ち上がってのダンスもすごいねえ。まねできないねえ。 


http://www.youtube.com/watch?v=_9lxGJvnZA0

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